12garage

主にゲームと映画についての雑記。

レビューしかできない

 僕にとっていろいろなサイトでレビューを書いて時折それを確認するという行為が生活の環の一つをなし始めたのは、およそ五年前だった。最初はたんに素晴らしいものと出会って感情が高まって書くだけだった。次第に評価されることを意識するようになった。別に自分のプライドのためではない。世間の価値観と自分の価値観のすり合わせをするためだった。
 自分には、普段から要領の悪さからくる世の中とのズレというやつがあって、友人と遊びに行くために金を稼ぐ、といったことに頓着が出来ない。それができるのがいわゆる一般的な人間であって、そういった一般的な人間になるための条件が桶の板のように底辺の僕をぐるりと取り囲んでタガにはめられきっちりと見下ろしている。だからその板とのズレを何においても定期的に見なおす必要があった。

 良い物を良い、と感じる感性はどうやって作るのだろうか。僕は観賞や体験の積み重ねによる文法の理解だと思っている。しかし世の中の人はそうではないらしくて、アフィリエイトのためにウソを書きつらねるまとめブログの、卑俗なレトリックに読者を踊らせ、自分たちは巨大なものと戦っているという意識を安全なところから刺激することが、優れた感性の条件になっているようである。
 下世話で悪趣味、という方法が、かつて文学では流行って廃れたという。それが必要なのだ。インターネットの時代には、それが。僕は別に自分が高尚な人間だとは思っていないし、ただ他人を見下す癖があるだけだが、それだけでは単に性格が悪い人間でしか無い。己自身の下世話さをもっと露わにしなければ、下衆さで人を喜ばせなければ普通の人間にはなれない。だからこうして下世話な記事を書いて自分の「承認欲求」を見せているのだ。インターネットで自分を偉いと思っている人たちは須く承認欲求という言葉がお好きなのだから。

 僕は、幾つかの記事を読んで分かる通り、まともな文章が書けない。生活する中で思い浮かぶ文章をそのまま写し取れたらといつも思う。これがズレの正体なのだと思う。文章の順番や話題の統一性というものがどうしてもうまく構築できない。だからこんなふうに話が飛ぶ。
 なので、小説が書けない。確かにこういう、どんどん考えることが移り変わっていく様子を描写している小説はある。しかしそれは普通の小説を構築できる腕前があるからまとまっているのだ。だから僕は比較的箇条書きに近い形で済む感想やレビューという形で、表現をすることにしているのだと思う。
 何においても、なりそこないだと思う。絵は描けない。楽譜は読めない。面白いことは言えない。他人をいじめる側にまわることが出来ない。対戦ゲームはパッとしない。労働に堪える精神力はない。物事を長く続けられない。健康さまで永遠に失われた。
 そんな人間は世の中にゴマンといるだろう。だがそのゴマンは普通の人間だ。そのことに意識を向けない。自分ができそこないということに意識を向けないから日々生活が出来る。その愚鈍さが普通の人間には必要だった。僕にはない。

 「何も持ってない」ことと、戦う気力もない。ダラダラと、缶コーヒーにたまについているチョロQみたいな、惰性の走りを見せるだけにすぎない。何かをする気になってもその火が灯り続けない。
 そういう人間にとっては、やはりその場の情熱だけで書ける感想というのが似合っているのかもしれない。僕にとっては、そこから自分の望む何かになりたいというあがきだが、きっと誰にとっても承認欲求にしか見えないのだろう。