12garage

主にゲームと映画についての雑記。

どんぐりの殻比べ

寺田寅彦の「科学者とあたま」を読んだ。

まさしく名文である。

内容が、ではない。構造が名文だと言っているのである。

この文章は叙述によって自論のメリットのみを提唱して、デメリットや陥穽を徹底的に隠せる素晴らしい構造をしている。
けなしているのではない。おそらくこの穴があることをわかっていて仕掛けてきた寺田寅彦の知性に舌を巻いているのである。
頭の悪い人のほうが得をする「場合がある」という書き方が、まさに端的にそれを表している。

少し毒のあることを言ってしまうが、仮に、この文章の「科学者」を「労働者」に、「あたまがよい」を「経験がある」に、「あたまがわるい」を「経験がない」と書き換えると大多数の人が手のひらを返すだろう。 こう書き換えても実は言っている内容はほとんど同じである。骨子としては「既に自分の手の中にある賢さのカードだけでなく、自分より下に見えるものからも学べ」と言っているのだから。

全く腹が立って仕方がないが、こうやって罠を何重にも仕掛けに仕掛けていることで、知について語るこの文章そのものが読む者の不注意を誘う悪魔的な美しさを文に添えている。それが読むものの知性をズルズルと白日の下へ引き出してくるのだ。 単に頭がいい者は不愉快になる。頭が良くて悪い者はなるほどと頷く。無関心なものは科学とそんなに関係がない人だ。 ここまでは本文にあるが、では頭が悪い者は?
…我が意を得たり、と自分より頭のいい者に対して自慢気に援用する。「逆に頭が悪い方がいい」という具合に。



人間は「逆に」という言葉を病的なまでに好む。柄谷行人の言葉であらわせば「転倒」を好むと言っても良い。 「逆に」頭がいい。「逆に」最高。こういった言い回しには誰もが引き寄せられる。勿論私も使う。 しかしこの転倒というやつは菓子のような甘さを持つ反面、不用心な人間の頭をどこまでも悪くする病原菌でもある。
結核がかつて流行っていた時、文学者の間ではそれを甘美な病とする風潮があった。
事実を言ってしまえばそんなことはまるでない。病気になれば精神の変調や苦しみから多少ロマンティックな文章が書けるかもしれないし、やせ細った姿に性的興奮を催すこともあるだろうが、そもそも病気は本来治すべき対象でしかない。事実、正岡子規病牀六尺結核にかかり、脊髄カリエスで床に伏した体の痛いこと苦しいことをそれはもう克明に描いている。
そもそも病気が美しいという風潮は海外のロマン主義にかぶれたものである。西洋ではそういう線の細い病人を気取ることで「貴族的風格」を出そうとしたものを、日本人が事情を知らずに憧れて真似したというだけだ。その前提、文脈を知らないまま「肺病は美しい」という概念だけが独り歩きしている。
これが「転倒」だ。
「逆に」という言葉を多用すると頭が悪く見えるのは、この「転倒」によって前提や文脈のつながりをぶった切り、論理性を放り投げてしまうからである。



「逆に」頭を悪くした方がいい、本当にそうだろうか。
それは頭が悪い、ということの、いいところだけを見ているのではないか?
頭の悪い人が富士の周りでとてつもない宝物を意図せず拾ったとして、それは頭の悪い人の、いったい何割の話をしているんだろうか…?

たとえばブルース・リーが、何の武道もやったことがないヒョロヒョロのモヤシ中学生で、土日で思いついた必殺技に「ジークンドー」と名づけただけだったら全くありがたくなかった。当たり前だが、彼がたくさんの稽古をして世界の多様な武術を取り入れたから凄いのだ。 もし作文の書き方も知らない人が、世の中に役立つ批評文を生み出しまくっているのなら、アマゾンのクソレビューは絶滅しているはずだろう。「役に立たない」などという役に立たない投票ボタンを作る必要もない。
頭を悪くせよ、頭をやわらかくせよというのは、まずは一度頭を良くしてからのお話である。型を破るには、型がなければ破れない。



頭が悪い人間を小馬鹿にしたくてこんな記事をわざわざ書いているのではない。「僕は頭がよくてあなた方は悪いんだぞ」などというくだらないことを書いているわけではない。私だって頭が悪いのだから。
文の一部のみに感化されて武器にした頭の悪い人間が、「頭のいい科学者」をはなっから小馬鹿にして威圧する。その溜飲を下げるためだけにこの文を引っ張ってくる態度こそが、頭の悪い人が科学者に勝りうると寺田が文中で指摘した「向上心」「気づき」そのものを失わせているのであり、また学者がその威圧を警戒して今日まで何の益にもならないあの鼻につく高圧的な態度を取り続ける原因になっている、と申し上げたいのである。

物事について、まったくの素人が金の卵を生むことはあるだろう。ビギナーズラックに期待するのもわかる。
だが、それは、その一握りの成功にまで排出されたとてつもない量の失敗を無視すれば、という話である。