12garage

主にゲームと映画についての雑記。

おまえは女装神社で天地の間に屹立する

 よくきたな。おれは逆噴射エイク郎だ。おまえは男の娘は好きか?男の娘はしんのおとこなのでおれは好きだ。だから今日、しんのおとこしか出てこないしんのおとこのヴィジュアッル・ノヴェル、女装神社について記事を書く。



リスペクト元の記事:【日報】おまえはバーフバリで現代の神話を目撃する(逆噴射聡一郎)




◆2019/04/15 追記◆
 製作者様方に当記事を取り上げていただいたようです。ありがとうございます!
 追記というか補足説明ですが、当記事での特徴的な文体はコラムニスト逆噴射聡一郎氏の作風をリスペクトしたものであり当ブログのオリジナルではないこと、また当記事に記述された意見はすべて本家の逆噴射聡一郎氏と無関係であり、責任は管理者の私AKLOにあることを付しておきます。
 製作されたの〜すとらいく様、記事作風の参考元とさせていただいた逆噴射聡一郎氏に深く尊敬の意を表し、ご挨拶とかえさせていただきます。
◆いじょうです◆

◆目次な◆



ASAPでデモをプレイしろ

 おれは日々たいへん数多くのゲームをプレイしているのでジャンルごとに違う方法でレヴューしたほうがよいことをしっている。サルサソースの味をせつめいするより、まずはそのへんのメガネかけたNP供給で過労死してそうな屋台のおやじが作ったタコスを食わせたほうが早い。それとおなじだ。
 女装神社はヴィジュアル・ノヴェッルでありそれ自体が文章によって成り立っているものなので、言葉で説明するよりこの場合まず読ませたほうがいい。だからまずはデモを読め。



 右の方にある"デモをダウンロード"で試遊できる。



 しかし、おまえたちのなかには「エッ女装・・・なんか話の啓蒙高いよぉ・・・帰ってパラッパラッパーしよ」とか考える慎重派もいることだろう。おれはかんぺきなPROなのでそういったこともリサーチしている。そういったやつのためにおれは女装神社がいかにホットなゲームであるか、順にせつめいしていくつもりだ。
 女装神社・・・神と人、天と地と女装の物語・・・それは現代の神話であり、熱いMEXICOをはらんだエピックにほかならない・・・。


男の娘はしんのおとこでありベイブだ


 男の娘・・・それは夢であり、希望だ・・・。しかし男の娘というとすぐそうやって「どうでもいいけど男である必要がない」とかなんとかどうもひねくれた理屈をこねだしスマッホでいかがでしたかブログを眺めだすうらなり野郎がいることが調査の結果あきらかとなっている。おまえたちはいつからそうゆうこしぬけになってしまったのか?業者RTやアニマッル画像無断てん載bot、葦名のうんこ投擲モンキーに、おまえのSOULは殺されてしまったのだろうか?しかし、死にゆくおまえをもう一度目覚めさせてくれるものがある・・・。それが女装神社だ。


 話を戻す。男の娘というと、確かに見かけは女の子に見えないところになんかがついてるだけのように思われる。人によってはそれが余計にかんじることもあるだろう。だがまってほしい。これは、男の娘がホットなベイブでありながらしんのおとこであることを意味している。かつておれはそれに気づいたとき、つぶやいたのだ。わぁい《アメイジング》・・・と。

 昨今の評判のよい作品には、なんか派手な爆発や成り上がり、異世界に行くことやドリトスが必要なことが一般に知られているが、そうはいっても昔からしんのおとことベイブは欠かす事ができないのは自明だ。そこで気づく・・・男の娘は、しんのおとこであり同時にベイブだ。これは一度にふたつの条件を満たしているチョー画期的なシステッムではないだろうか?つまり、男の娘が出る時点でその作品がずいぶんすごいことがしょうめいされていることになる。
 そして、女装神社のヒロイン・・・ヒロインだろうか?たぶんヒロインは、ふたりとも男の娘であり、そのすごさが倍増していることになる。さらに永遠のチャンピオンの理論では1+1で200だ、10倍だぞ10倍と提唱されており通常のノベルよりたぶん10倍はすごいのではないのでしょうか。


▲キャッチャーはピッチャーの女房役というし男の娘が主人公の妻として同衾してもおかしくないですね?

 
 

おまえはブロッコリーについて考える

 おれはこういったホットなベイブやしんのおとこが出てくるゲームは好きだ。しかしすごいからといってゲームに対して神ゲーとかクソゲーとかあんいな言葉を使ってレヴュ0する行為はあまり好きではない。それは読者にわかりやすいよう単純な言葉を選んでいるのではなく、書き手の思考が単純な言葉の力に操作されているからだ。だが、このゲームをしょうかいする上でひとつ間違いないのは、女装神社は女装した神様が出てくるとゆうことだ。これはなんかGODみずからが出てきてしまっているので、神が出てくるゲームつまり神ゲーであることは疑いようがない。

▲神だから女装していても特におかしいことはない




 さて、女装神社にパワがあり称賛されるべき点として、攻略たい象に男の娘しか出てこないことが挙げられる。

 ハンバーグを食べるとき、付け合せのブロッコリーに目をやる人間は少ない。ほとんどのやつは頭の中がもうハンバーグ師匠になっており、一刻も早くハンバァァァーーグ!!!!することしか考えていない。せいぜい肉をたべる合間にコーンやらなんやらと同じく適当に食べられるだけの添え物に過ぎず、ブロッコリーだけを意識するやつは少ない。ジュウウウウ~~~ッ!!!
 通常のギャルゲーとかにおける男の娘がこれだ。結局のところ、攻略対象として男の娘が用意されていても、まずメインヒロインを攻略してからコンプやついでで攻略し、そこで初めてそのキャラクターと真正面から向き合うというかたちになるだろう。だから多くの場合ブロッコリーだけの味をまず意識するということはない。


 しかし、茹でたブロッコリーのみをテーブルに出されたとき、そのとき初めて「ブロッコリーはマヨネーズがいい」「人によって食感が苦手だ」「茹でて時間が経ちすぎたブロッコリーはワックスの味がする」「この緑のつぼみからきれいな花を咲かす」そういうことを意識する。どういう意見であれきちんと考え直す。対象を絞ることできちんと無意識から意識にのぼるのだ

 まさしく、シナリオを書いた西田一というライターがしんのおとこである所以がこれだ。すでに山脈とか海峡とか学園とか千年王国みたいなMEXICOをつくりだした集大成がここにある。
 男の娘というのは、ギャルゲーにおいてそれ単品で取り上げられることが非常に少ない。これはさっきも話した。あくまでも消費される一要素にすぎないということだ。コミックなどでは男の娘を主役もしくはメインヒロインとして配し、専もん誌が作られるなどスポットライトを当てる動きがかなり進みつつあるが、恋愛の対象としてその人物と付き合ってみようという考えでゲームにされる機会に恵まれず、太い柱として出てくることがあまりなかった。素通りとまではいかないものの、紙幅を割いてもらえる割合はかなり小さいと言わざるをえない。
 そう、だから伊達や酔狂だけで出しているのではなく、しっかり書きたいからオンリーに絞った・・・そうゆうマジのきちんとした計算がこのMEXICOに存在している。だからこそその言葉にはパワと説得力が宿るし、揺るぎなくキャラの魅力を書くことができるというわけだ。

男の娘は普遍的な人間性にも光を当てる


 そうはいってもおまえたちはストアページの登場人物紹介に面食らってしまうことだろう。「なにこれ・・・こわ・・・・帰って三本目のへその緒使うわ・・・」とか言い出すのは目に見えている。
 だがまってほしい。一人の人物がたくさんの側面をもつことはそんなにおかしくない。例としておれはゆだんの少ない男であると同時にニンジャヘッズであるし、芝村をやったりマスターをやっていたりレイヴンでありリンクスでもあったしてんさいランナーだったりかつてミグラントでもあった・・・。そうゆう兼ね合いは現実ではふつうのことだ。おまえたちはスマッホの予測変換とかに毒されてしまったことでR・E・A・Lを忘れている。思い出さねばならない・・・。





 だからべつに千年単位で封印されていた女装ケモミミ男神が唐突に愛の告白をしてきたとしてもおかしくはない。結衣は主人公の前世で妻だった男の娘だし、逆説的に千年前から男の娘との結婚は普通のことだったと言える。
 神が人を想い、生きる世界が違えども歩み寄って結ばれようと努力する健気さの前には、性別とかたぶん忘れる。




 おまえたちにもなんか小さい頃とかに一緒に遊んだり近所でみかける子供とかはいたとおもう。あるいは家族に姉がいるやつとかもいるだろうし、家の近くに駄菓子屋や神社があったりするかもしれない。なので近所の駄菓子屋の跡取り息子で巫女で幼馴染のお姉ちゃんを自称するブラコンの男性が自分ちに同棲していてもやはりおかしいことはないだろう。美代さんはお姉ちゃんだからたまにビームとか撃つし隙あらば神殺しに挑もうとするけど、まあなんかお姉ちゃんだしいいんじゃないですかね。
 男の娘が姉であることはおかしくない。「おかしくない」にするための途方もない努力を惜しまない人がいたら、おれは性別とか関係なく本物のお姉ちゃんだと思う。





 女装神社はたしかに異質なものがたりであり、繰り出されるパワーワードと男の娘しかいないストーリーに翻弄されることだろう・・・。それは無理からぬ事と言える。だが、そこは女装神社の表層にすぎない。はっきり言っておくが、このタイトルは笑えるゲームではあるが、他人から笑われるようなゲームではない。

 男の娘とはなにか、と考えたとき、そこには一瞬のためらいや戸惑いが生じるかもしれない。あるいは、さらっと物事のさわりだけを見て理解した気になり都合よく現実にそんざいするポリテカリーな問題と混同して急に怒り出すこしぬけもいるだろう。

 しかしなぜ男の娘が「ショタ」ではなく「男の娘」なのかを考えたとき、そこには愛による歩み寄りが存在するのだ。おまえたちが同性が異性装をしているのを見て困惑するのより深く大きな戸惑いを、男の娘が同性への愛情を自覚したとき感じたはずだ。その感情を受け入れて、自分の容姿というアイデンティティを変えてまで相手の望むであろうかたちになるという決意、相手にそのままの自分を受け入れてもらえるまでこれから長く長く続く努力は、まさに人生をまるきり変える覚悟がなければできないだろう。そのDETERMINATION・・・・・ それこそがしんのおとこにしかなし得ぬ偉業だと理解する。


 

 おれはべつに、同性をむりやり好きになれとかいうそうゆう陳腐なはなしはしていない。だが、おまえを想う人がいるとき、おまえもその人を想うということはおかしくない。大きな感情に大きな感情をかえすことで幸せをつくったとして、なにも問題はない・・・。それは人間のなし得る意志の力であり、しんじつの愛だ。つまり、たいせつにしてくれたひとをたいせつにするとゆう簡単なはなしでしかない。異性同士のそれと過不足なく同質に尊く、尊重されるものなのだ。
 ここまでおれは女装神社について説いてきたが、いつもと同じく、結局のところするかしないかはおまえたち次第だ。だが、どちらにしても人間の、幸せになりたいという意思・・・だれかのそうゆうものを、大切にして覚えていてほしい。





 あとなんか思い出したが公式サイト行くとシコいシーンが追加されるやつがあるから悪魔の力を身に着けたバンデラスたちは買って迷わず行け。
 おれのはなしは、以上だ。


(Trap噴射エイク郎)