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主にゲームと映画についての雑記。

外すことのできない白いマスク 映画「ジョーカー」感想

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I'm starting with the man in the mirror
I'm asking him to change his ways
And no message could have been any clearer
If you want to make the world a better place
Take a look at yourself, and then make a change


Michael Jackson "Man in the mirror"



 昨日のパラサイト地上波放送、面白かったですね。今日は久しぶりに映画の感想を書きます。

 タイトル通りジョーカーの感想です。正直出尽くしてるし、劇場で観てから一年近く経っているのになぜ今更記事で書くのかという思いも自分の中でありますが、昨日ふとしたきっかけでやっと自分の中で言いたいことにまとまりがついたので書こうと思いました。
 この記事は過去にフィルマークスに投稿した僕の感想をもとに再編・加筆をしたものです。

 ネタバレがあるので各自自衛してください




もくじ


オーバービュー


 ジョーカーはめちゃくちゃ暗くて他人にはおすすめできない映画です。(大衆映画として)
 ジョーカーは最高にスカッとする楽しい映画です。(ニューシネマとして)


 個人的に気に入ってるシーンは暴行を受ける警官の前で優雅に踊るアーサー、あとマーレイを撃つ前のシーンのふたつ。前者は面白すぎて笑いました。

 ニューシネマ*1というか、退廃的で反社会的な映画の系譜としてはタクシードライバーしかりランボーしかり色々あるものの、なかなか消化不良にとどまっていた印象があります。しかしやがてファイト・クラブがスカッとするオチをつけることに成功し、その後に産声、いや産笑い声をあげたのがジョーカーではないかと思いました。これまでの薄暗いニューシネマ系のタイトルを監督が参考にした上で最後にすっきりと明るく仕上げることができた、ある種の完成形と言えないでしょうか。

 まずホアキンの役作りがすばらしい。これはマジでヒースレジャーに匹敵すると思いました。
 劇中ではアーサーが喜んだり気分を落ち着けたいときに踊るシーンが何度かあるんですが、そのシーンの撮影は場所を用意されただけだったので「んじゃ踊ってみるか」と考えたのはホアキン。冷蔵庫の中身を急に放り出して入ったのも、ホアキンが「不眠症の人間が眠れないときどうするだろう」と考えた上でのアドリブ。これらのおかげでアーサーの狂気度は爆発的に上がっており、この映画のジョーカーはホアキンという鬼才によって完成度を異常に高められたと言っても過言ではないでしょう。
 こういった過剰な役作りについては正直よくないところもあるのですが、観ている側としては素晴らしかったです。

 さらに、ストーリーラインの練り上げ方も良い。
 ゴッサム・シティの治安の終わりっぷりをしっかり描くことで、アーサーの殺人をそこまで異常に見せないようにうまく抵抗感を取り去り、その上アーサーに非道を働いた輩だけを殺す対象として絞ることで「こんな街でそんなことされたら、殺人だってしちゃうかも…」という共感をうまく引き出してますね。
 アーサーの動じなさっぷりもいい。アーサーにとって殺人はビックリするようなことではあるものの「日常生活を乱すような要因にはならない」んですよ。それは彼の価値観のズレっぷりを示してるんですが、逆に殺人で思い悩み過ぎたために次の殺人をするというような連鎖もなく、すなわち彼は荒れ放題のゴッサムであるにも関わらず悪いことを誰かにされなければ自分からはしないある意味我慢強い男でもあります。
 ゆえに、アーサーは我慢して我慢して我慢します。ホアキンもインタビューで言っているんですが、この映画ではたくさんアーサーが怒りそうなポイントを設けているものの、そのどれも決定的にアーサーを"ジョーカー"にはせず、あくまでゆっくりと精神が壊れていくわけです。

 逆に言えば、ジョーカーは、アーサーがぶっ壊れる前に優しく向き合う人がもっと多ければ存在しなかったかもしれないということでもあります。もし劇中の人々が、アーサーにもっと助け舟を出していたら、あるいはバカにせず向き合っていたら、市が福祉政策を継続して弱者を労っていたらジョーカーは存在しなかったかもしれないんですね。
 マーレイを撃つシーンで、アーサーは直前に「ノックノック」という芸をやろうとしてましたね。自分の頭を銃で撃つジョークです。そして、アーサーの銃には実包が装填されていた。
 もしマーレイが茶化さずにアーサーのネタをやらせてあげていたら、頭の中身をスタジオにぶちまけていたのはマーレイではなく、ジョーカーも存在していなかったのかもしれない……、かもしれない。

 そういう細かい分岐点をたくさん散りばめた末に、すべて最悪の選択肢を選んでいくと最終的に"ジョーカー"が完成するのです。悪人に感情移入するというのは抵抗感があるものですが、周到に文脈を作り、彼が殺人を犯すまでの道筋に意図的に同情を買えるよう計算されているんですね。すごい映画だなと思いました。
 この映画からどう答えを受け取るのかは人によるところですが、犯罪に走るまでの動機や社会に見放された貧困層をごまかさずに描き出し、かといって虐げられている人たちの心が清くて非暴力的かというとそうでもない、といった徹底したリアリズムには目を見張るものがあります。
 ジョーカーが自分の身の上話をいい加減にでっち上げる癖があるという設定も、この映画のオチとしてよく効いていると思います。


鏡の中の男


 もうあちこちで散々言われ尽くしていることですが、この映画は見る側を非常に選んでくる映画だと思います。
 

 上映当時かなり賛否両論でメディアもさまざまな書き方をしていましたが、あれもいま思えば面白いものでした。いくつかのメディアは「青少年に悪影響を与え、犯罪を助長する映画」などと述べながら本編の描写を無視したいい加減な記事を書いたりして、「本当に観たのか?」なんてツッコまれたりしてましたね。当時は僕もそういういい加減な叩き方をするメディアにブーイングを浴びせていたものでした(ここ最近の僕の動向を見ている人なら想像に難くないでしょうね)。ただ、最近いろいろとあって少し視点が増えたので、いまは「ああ、多分彼らはしっかり観ていてなおこの書き方をしているのだろうな」というふうに思います。さらに言えば、掲載メディアによってはいろいろと"面倒なしがらみ"もあるので、書きたくてもライターの思ったように書けていない可能性もありますしね。先入観や色眼鏡の力とはそれほどに強力なもので、あれはあれで彼らの100%の記事なのです。そういった杜撰な記事をすら書かせてしまうのがこの作品の魔力なのではないかと思っています。


 この映画のすごいところは、強烈にその人の先入観や偏見、ライフスタイルや考え方をブーストして出力させるアンプリファイアだということです。いや、正確には「見る側の資質によって観たあとに良かったか悪かったかの感想どちらをアウトプットするかを強烈に二分する作品」というべきでしょうか。わかる人にはわかって、ローンの残りや持病の処方箋や息が詰まる職場などを思い出して自分の出口のない人生をアーサーに投影するかもしれないし、わからない人はアーサーが病気を言い訳に社会に反抗するいい歳してトロくさい甘えたガキとしか見ないかもしれません。


 つまりこの映画は一定の方向に感想を操作するオチをつけるのではなく、まるで鏡のように見る側の人生観や倫理、自分のポジション、社会に対する印象を強烈に反射し、そのために自分の主張(批判称賛どちらであれ)にとって都合のいいように作中の描写に対して意図的な見落としを生じさせたりする作品だと思います。当然僕が今書いている記事も見落としが生じているだろうし、全く中立ではありません(まあ中立な感想などこの世に存在しないとは思いますが)。
 内容が内容なだけに、多くの人々にとって冷静にこの作品を語るのは難しいし、また過剰に自分を重ねすぎてしまったり、その過激さゆえに自分の立場を守ろうとして思っていることを正直に言うのが難しかったりする映画でもあります。


白い仮面、白いプシコ


 この映画は、アーサーがだんだん狂っていくという個の話に終始した映画だと思っています。

 この映画に対するいろいろな人の感想とか言説を読むと、かなりの割合で革命的なストーリーとか反体制的な物語だと解釈している傾向があります。もちろんそれはそれでその人の考えなので別に悪いとかではなく楽しく読まさせていただいているのですが、個人的には「ジョーカーは革命とか暴動を肯定する映画とは違うかな」と考えています。


 作中でゴッサムシティは福祉政策の停止やゴミ清掃のストライキが起こり、街中ゴミだらけだったりチンピラがうろついていたりしていて、その状態でアーサーによる射殺事件や富豪のウェイン氏への反発などもあいまって挙句の果てに暴動が起こるのですが、そこでマーレイを殺したあとのアーサーが暴徒に担ぎ上げられ、ダンスを披露します。そのあたりで一般的には「世界(ゴッサムシティ) vs. ジョーカー&暴徒」という構図に見られるわけですね。だから暴徒を煽る映画だとか、危険な作品という言説がわりと多く見られるのかなと。折しも香港で暴動があったりもしましたしね。

 ただジョーカーにおける暴徒や貧困層はなんなのかっていうと、僕は「主題ではなく舞台装置に過ぎないのではないか」と考えています。サブテーマに過ぎないんです。もちろん暴徒や貧困層は無数の恵まれぬアーサーの分身としての意味もあるんだけど、アーサーの転落の始まりもチンピラ(に襲われて看板を壊されたこと)です。つまり暴徒や貧困層、暴力によって他者を搾取する輩は、かならずしもアーサーの味方とは言い難い。むしろけなげにやってきたアーサーが拳銃に手を出し、彼の人生が破綻していくきっかけでもあったわけです。
 先にも触れたとおり、ジョーカー世界の金持ちはゴッサムシティに圧力をかけて福祉政策をやめさすカスの集まりなんですが、一方で貧困層もそれなりに治安が悪く、無教養で暴力的で、真面目にやってるヤツから奪ったりするグレーな存在だということは、もう冒頭から描写されていることなんですね。


 革命の狂奔とか熱狂を描く映画と受け取られがちですけど、恐ろしく冷たい映画ですよジョーカーは。

 アーサーは、作中で富めるもの貧しいもの血を分けた家族すべてから迫害されてるので、セーフティネットのすべてから滑り落ち、社会との命綱が全部切れてるんですね。チンピラに襲われる。半ば無理やり同僚に銃を買わさせられる。職を失う。福祉政策は打ち切られ、かかりつけの病院は閉鎖される。笑いを抑えたくても発作を抑える薬を出してもらえない。期待していた恋に敗れる。ウェイン氏の落胤というのは母親の狂言。母の容態を悪化させた乱暴な警察。愛して守ってきた母親と父から過去受けていた虐待、そして自分の障害の原因。尊敬していたコメディアンから徹底的に侮蔑され、ネタひとつやらせてくれなかった。

 要するに「アーサーという人の受け皿がもう無い」ということを繰り返し繰り返し映画の中で描かれているんですよ。
 このへんは、タクシードライバーと比較してみるとわかりやすいかもしれません。タクシードライバーの主人公トラヴィスは、狂気に呑まれながら自分本位のナルシズムな正義を掲げた結果、少女に売春をやらせているスポーツらを射殺して街のちょっとした義侠として名を馳せ、その立ち位置に着陸していきます。彼の理想通りの筋書きに落ち着けたわけですね。
 ただ、アーサーはどこにも着陸できない。たとえ暴徒の中にさえアーサーの居場所は無いと思います。一見アーサーがジョーカーになって革命のカリスマに成り上がるように見えますが、本編中貧富問わずあらゆる層から搾取や拒絶を受けたアーサーの行く先は、まさしくヒース・レジャーがやったあのジョーカーではないでしょうか。暴徒はジャンヌ・ダルクのごとく「金持ちのいけ好かないビジネスマンやマーレイを殺したジョーカー」を担いでいるのであって、アーサーという一人の人間が受けた苦しみや過去を紐解いて寄り添う気は無い。アーサーが電車の中で男たちを撃ち殺したのはあくまで彼自身が暴行に耐えられなくなったからであって、それを周囲が「富裕層を殺した英雄だ」と勝手にヨイショしているのは、劇中で描かれるとおりです。
 また、デモ参加者が着けているピエロの仮面も、アーサーと暴徒との距離感を示したいい小道具だと思います。お面を使ってアーサーが警官を撒いたり母親の件で復讐するシーンもありますが、彼は彼で暴徒やデモ参加者をいいように利用しているんですね。暴徒は素顔にピエロのお面を被せているのに対して、ジョーカーは「お面に見えるように肌にピエロのメイクをしている」というのも良い対比です。デモ参加者のように一時的に社会通念から外れる存在を上に被っているのではなく、彼はもともと"それ"でしかいられないのです。

 最終的にアーサーの胸の中にあるものは何なのかというのは解釈の分かれるところですが、貧富問わずすべての人間への憎悪だろうなと僕は思います。

 彼が暴徒によって破壊される街を見て「綺麗だ」と評するシーンがあります。暴徒だったら腹の立つ街が壊されて爽快だとか言うかもしれませんが、美しいと思うかは微妙なところです。廃車や倒壊した店だらけだったら不便ですし、良いとは思わないでしょう。しかしジョーカーになったアーサーは、街が混沌に包まれてすべてが破壊されている方が「良い状態」なんですね。そこが主義主張のために怒り狂う暴徒と、混沌を美しく思う彼の決定的に違うところです。アーサーの中にはウェインへの憎悪も、マーレイへの憎悪も警察への憎悪も、自分を騙したきた母への憎悪もチンピラへの憎悪も全部あり、世界と人への憎しみがあるからそう思うのではないでしょうか…
 何もかも憎しみ、支えや繋がれるコミュニティは無く社会との折り合いが付けられなくなって、ジョーカーという強烈な個として何もかもから分離することでしか生きていけない男が彼なのだと思います。それは決して暴徒の庇護者でも反体制の英雄でもありません。そんな良いものなわけがないんですよ。誰にも理解されることのない、もっとおぞましく孤独なものです。
 社会からすこしズレているだけの人を虐げ続け、彼に繋がっているあらゆる命綱を横から切り続けていった結果、本当に狂ってズレきってしまったおそろしい悪党(ヴィラン)が出来上がるというわけです。

 だからジョーカーが暴徒の味方か、暴徒を肯定したり正当化する作品なのかというとそんなことは無く、「暴徒を作って外から煽り高笑いしながら、復讐として世界が壊れていくのを眺めたい」というのが、アーサーが絶望の末に成れ果てた最悪なヴィランの目的なのではないか、というのが僕の結論です。


 物語の最後は犯罪組織や革命集団のなかではなく、精神病棟の真っ白な部屋(White Room)で締めくくられます。
 彼のジョークに理解者はおらず、血の足跡を残しながらひとりで高笑いをするのです。



<了>

*1:ベトナム戦争の影響を受けて作られた、反体制的・観たあとに希望を与えない映画をひっくるめて1ジャンルにした言い方。ニューシネマは和製英語で、アメリカではニューハリウッドとかニューウェーブと呼ぶらしい