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主にゲームと映画についての雑記。

爆発オチが目の前を染めて広がる ~ 藤本タツキ「さよなら絵梨」感想


”どうせなら嘘の話をしよう 苦い結末でも笑いながらそう作るものだろ どんなことも消えない小さな痛みも 雲の上で笑って観られるように”

―――星野源「フィルム」





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ジャンプラで「さよなら絵梨」が公開されました。




 最近はヒマがあればエルデをうろつくかホージンに顎で使われてFreshPoundの殴りをパリイしてばっかりで映画観てなかったので、さよなら絵梨を読むにあたってちゃんとぼくのエリを観ました。ヴァンパイアの出てくる映画といえばおれはリンカーン秘密の書くらいしか見てないので、あんなに可愛い天使みたいな少年のオスカーが振る舞いひとつでガラッと印象変わってすげえなとしみじみしています。

 さよなら絵梨、ほんまオモロイですね。構成もすげえけど、何より爆発オチが本当に笑えていい。「知らね~~~~!俺は好き勝手やったからよ!!あとは読者のてめーらで勝手にやってろ!!!じゃあな!!!!!」という意思を感じる。おれはスペース☆ダンディとかがめちゃくちゃ好きなタイプなんで、実力のある作家が好き放題やったあとにこういう爆発オチを出してくると笑い転げながら手を叩きます。


 さて、例によって感想を書いていきたいのですが、本当であればこの作品はとくにあれがどうでこうで……と考える必要がない作品だとは思います。「アウトレイジ ビヨンド」についてビートたけしが「カルトとかアート映画と言われないために目や表情でやることをすべてわざわざセリフにした」と言っているように、この作品も過去作と比べてやっていることや思っていることをキャラクターにたくさん喋らせているのでわかりやすいです。つまり明確に「楽しんでくれや」とエンターテイメントで作ってる作品だと思われるので考えたり読み込む必要があるかないかでいえば……たぶんないのですが、書くとおれが楽しいので感想を書こうかなと思います。
 いつものことながら予防線を張っておきますが、本記事はただ場末でくだを巻いてるだけの感想であり考察やら公式解釈やらではありません。
 また、「さよなら絵梨」本編に対するネタバレ、藤本タツキ「さよなら絵梨」本編内の画像の引用といくつかの映画の核心に触れるため、そういうのが苦手な人はブラウザバックかウィンドウをそっと閉じてください。





さよならエリ

 さよなら絵梨はタイトルにもある通り「ぼくのエリ」を意識した作品だというのはおれごときがいまさら大仰に言うまでもないことだと思います。いじめられている少年オスカーが不思議な人物エリに出会って徐々に変わっていき(あるいは変えられていき)、吸血鬼であることがわかったエリとともに旅に出ることを選ぶ映画なのですが、主人公である優太がドン底の状況で絵梨に出会うとおり本作もおおむねその流れを踏襲しています。では何故「さよなら」なのか?というところなんですが、それはもちろん絵梨と死別することもそうですが、ぼくのエリとは違い優太が絵梨と決別することを指しているんじゃないかと。

 「ぼくのエリ」にはオスカーとは別に、ホーカンという名前の初老くらいのオッサンが出てきてエリの世話をしとるんですが、そのホーカンが歳のせいなのか殺人にしくじってエリが飲む血をうまく仕入れられなくなり、しまいには致命的なドジを踏んでエリにとどめを刺してもらうという一幕があります。肉体の年齢が離れていってしまうからかエリともうまくいっておらず、見るも無惨に終わりを迎えるんすよね。これは「エリと共に生きることを選んだらそのうちこうなるぞ」と暗にオスカーの辿る末路を示唆してるんじゃないかと言われていて、オスカーはいつかどこかでバッドエンドで幕を引くだろうということを予感させながら列車のシーンで物語が終わります。

 つまりさよなら絵梨はそのまんま「さよなら」と言っているので、「そういうエンディングではない」ということを意味してるんじゃないかな、ということです。最後の最後で絵梨を廃墟ごとブッ飛ばして終わるのは要はハッピーエンドであり、(まあちょっと監督がアレなんですが)「地獄でなぜ悪い」でヤクザの流血沙汰の素晴らしい撮れ高に狂喜し「イヤッッッッタァァアアアアアアア!!!!!!」と平田が絶叫しながら走ってるエンディングとだいたい同じ温度感で受け取るのが近いかなと言う感じ。我々にはムチャクチャやってるように見えますが、彼はちゃんと撮りたい作品が撮れたんですね。
 


振り回される男

 優太くんは悲しいことに作中序盤で処女作の「デッドエクスプローションマザー」がクソ映画と評されてしまうんですが、実はテレビ局プロデューサーだった母親に振り回され酷い暴力を受けつつもその願いを叶えるために、母親の綺麗なところだけを撮っていたことが彼の二作目でわかります。

 この構成すんごい上手いですよね。たとえば「カメラを止めるな!」という作品で我々観客は「ワンカット・オブ・ザ・デッド」という長回しの悪いところが全部出たみたいなアサイラム級地獄のグダグダゾンビものを最初に見せつけられ、観客が思う「オイ、これなんかおかしいぞ。なんでそうなった?なんでそうした?」があとで拾われることで「カメラを止めるな!」が面白い映画として完成します。「カメラを止めるな!」は一回ワンカット・オブ・ザ・デッドが終わってから時間を巻き戻し、"神の視点"からいままでの出来事を追いかけるんですが、「さよなら絵梨」ではそのまんまPOVを続けて「デッドエクスプローションマザー」を取り込んだ二作目としてしまうわけです。文化祭での上映まで優太くんが撮影することで「えっ!あっ!!これ二作目だったのか!!」というダマシに我々がやっと気づくし、一作目のあと先生に『あんな映像流して死んだ母親に申し訳ないと思わないのか?』と問い詰められ『はい』と一瞬反射で言っちゃったり、爆発オチについて『最高だったでしょ?』と自賛したシーンの意味がちょっと変わってくる。

 まさに絵梨ちゃんが言ってますけど、息子に「今から死ぬ自分を撮れ」っつってる事自体もだいぶキッツイし(しかも誕生日だぞ)、まあ撮れと言われてキレイに撮ってたけどちょっと頭にきてたんじゃないかな、あれは。あの映画を見て周囲がそう思ったとおり、お母さんはこの先亡くなってしまうという意味で絶対的な弱者なのだから、優太くんは陰でどんだけブン殴られてようがその"弱者"に復讐することが許されない。"不謹慎"なので。あの爆発オチは、彼が後述するひとつまみのファンタジーを好む作風であるからと同時に彼なりにギリギリの落とし所だったんじゃないかなとも思えます。13箇所の爆発だぞ!!確実に腹立ってたんだろ!!!

 そういう若干複雑な胸中も含めて、ちゃんと作品に混ぜ込んで仕上げたあたり二作目「さよなら絵梨」は優太くんの成長が見て取れる作品ですよね。インプットの成果でめちゃくちゃ映画撮るの上手くなったってのもあるんでしょうが、絵梨ちゃんの才能を見る目は確かだったと言える気がします。


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 「さよなら絵梨」劇中の中盤で本人がプロットを言っている通り、実は病院での印象的な出会いのシーンもまるごと後撮りし直して、それを使ってることがわかります。マジでこんな出会い方したんじゃないか、って完全にダマされたよね。本当の初対面は眼鏡をかけてただろうし矯正もしてたんでしょう。「んっあれ?嘘?もしかして……」じゃねーーーーよ!!いやぁ〜〜この素知らぬ顔ですよ。こいつ心臓にメリノウールでも生えとんのか?
 ただそこんところしっかりそれで撮ってしまえるあたり優太くんも優太くんだし、初対面のふりしてキッチリ演技する絵梨ちゃんもすごい女優ですよね。自分たちの出会いすらも映画として面白く、あるいは絵梨ちゃんをドラマチックでキレイに演出するために意図して書き直してる。ヤバいくらい映画づくりへの意識が貫徹してるよね。コメディシーンを入れたりしていることも演出として良くて、ただ日常を淡々と撮るのではなく「面白いものを見せよう」という意識が感じられるものになってる。



現実の僕はそう上手くいかなかったから

 そしてそこから終盤にかけて、実は絵梨ちゃんも母親同様なかなかにキツイ女だったことが明かされ、その後も主人公は絵梨のデータをいじくって過ごし…と続けていきます。優太くんすごいですね。「ハードコア」のヘンリー並に悪女に振り回される才能ありますよ。
 何かが足りないような気がしたまま就職し、妻と娘ができて…しかし唐突にそれを失ってしまう。そして死に場所にするつもりだった廃墟で本当に吸血鬼だった絵梨と再会して、ふたりの若い頃がスクリーンに映された印象的なシーンのあと……




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唐突な爆発オチが読者を襲う!!












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 本当におもろくてヤバかったですね。マジでイカれてるよ!どうしてこんな漫画描けちゃうんだよ!!!ってずっと笑ってました。

 ひとしきり笑って混乱してましたが、しかし一見ムチャクチャに見える終盤にちゃんと意図が存在し、これもまた作品内でちゃんと説明されています。



 優太くんがどうして最後に爆発させたかというと、絵梨ちゃんが言う通りひとつまみのファンタジーが無かったからです。
 優太くんは都度さし挟まれるとおり、自分がウンコするところを撮ったり乳首に喜んだりするシーンを入れていて、ずっとコメディを撮りたかった人なんだということが見て取れます。つまり二作目で絵梨ちゃんの願いを聞き届けつづけた結果、彼は実質の総監督である絵梨ちゃんのシリアスな作風に振り回されていただけで自分の映画が撮れていなかったことになるのではないでしょうか。
 

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 優太くんといえば何なのか、ということについてはお父さんが言っていますね。爆発オチなんです。欠けていて足りなかったものというのは、ちゃんと自分の作風でこの映画を撮り終わること。だから絵梨ちゃんとお別れをして、自分の象徴である爆発で締めることで伊藤優太くんの作品として完成するのではないかな、と思います。


 また終盤の優太くんが自殺を考えるシーンについてもいくつかおかしな点があるんですね。彼の一作目二作目でもそうでしたけど、優太くんはひたすらなんでも撮ります。猫がそのへん歩いてるのも撮ります。それから映画に使うかどうかを考える作り方をしているんですよね。じゃあ、なんで妻と娘のことを画面に出さないのか?たぶん過去作のときの優太くんだったら確実に撮っていて映像を使うと思いますが、そうはならなかった。おそらくは撮ってないんです。あれはそもそも奥さんも娘もいなくて、事故もない、その後の物語を続けるための導入なんじゃないかと僕は思われます。
 絵梨ちゃんとの再会のシーンも唐突にいままでのスマホを使ったPOVじゃなくなってて、えらくしっかり二人が同じ画面の中に撮れてますよね。先にどこかにスマホを置いたわけでもないのに。撮影アングルがおかしくないですか?つまり本当に絵梨ちゃんと会えると知らずに撮ってたらあのシーンは実現不可能なんですわな。そもそもこの作品自体が優太くんや絵梨ちゃんをキャストが演じて撮っていた一本の作品だったのではないか、ということが示唆されてるんですね。
 

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 つまるところ、これは最終的にPOVをやめて神の視点から優太くんを映すことで、「これは優太くんが主人公に据えられた物語なんだよ」ということを改めて言っているんではないかな、と。映画のタイトルは絵梨ちゃんなのに一番魅力的なのは優太くんなんです。最後の映画はちゃんと優太くんの話だった、というハッピーエンドだなと僕は思っています。




というのは全部どうでもいい

 です。いや、良くはない。おれは本気でこういう話だったな~と解釈したし、書いてきたことは全部本当に楽しんで出てきた感想なので、どうでも良くはないです。自分の感情に対してスカしたことを言ってボヤかすのはあんまり好きじゃないですし。

 ただまあたぶんおれが言ってるようなことは既に頭のいい人が無限に先行して言ってるだろうし、同じ作品読んでるんだからギミックやそこに生じる感動もだいたい同じだろうと思います。もっと言えば、ルックバックとこの作品はたぶんファイアパンチチェンソーマンの長編ふたつをリバイバルしてる話だと思います。かたや、「生き続けろ(描き続けろ)」と呪われる話。もう一方は「とんでもねえ女(ヤクザとマキマ)に振り回されつつもきちんと別れを告げる」話。換骨奪胎してるんですよ。おそらくね。だからおれの考えたことや思ったことっていうのは過去作の感想ともカブるし、これまで感想を書いた人とこれから感想を書く人のなかに抗い難く埋もれていくと思います。

 おれは別に誰かが他人と同じ意見をもう一回言おうが良いと思ってますし、車輪はどんどん再発見すればいいし作品の感想を吐き出して狂うことは素晴らしいと考えています。ただ他人と同じことを書いてカブるのはおれの心の中のトガタが「ダメダメ!チンコかよ~!」と言い出すので、本当は言いたくなかったけど自分の言葉でできるだけ自分オリジナルの 蛇足感情を書いていきます。読む必要はないです。たぶん読んでてムカつく生の感情をいっぱい書きます。ムカつきたくない人は比較的綺麗な感情なままこのへんでブラウザ閉じてください。







おれの勝手な妄想

 あんまり気持ちよくない話を蒸し返しますが、おれは以前、ルックバックが修正されたときに猛烈に怒り狂いました。

 まあ理由は色々あるのですが、一番は修正を求めて騒動の中心になっていた人が過去に障がい者を小馬鹿にして繰り返し釣りアカウントを作っていたことでした。そ~~~いう本当は他人の苦しみが面白くって楽し~~い人の一見正しそ~~~~~うな意見に乗っかって大量に意識高い感じの人や障がい者施設のアカウント、大学の先生までもが右にならえで問題提起して修正に賛同しているのがピーヒャラ笛の音に乗っかってるように見えて動悸がしてゲロ吐きそうでした。いや今もそう思うんですが。あれは結局だれかを守れたんじゃなくて、社会規模で大成功したある種の釣りだとおれは思っています。あれからずーっと、「ああ、こういうふうに世の中は回っていくし、一見正しそうならあとはノリで世論は動くし実際に筋が通っているかとかどうでもいいんだな」と鬱々としていました。

 でも今回さよなら絵梨を読んで、なんというか作者からのメッセージを勝手に妄想して腑に落ちたので、おれはすごく気持ちが軽くなったなと思いました。


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 ここのお父さん、すんげえバカっぽい演技じゃないですか?これ、たぶん作者がそういう主張をそう思って書いてるからだと思うんすよね。
 ここの演技で言ってるお父さんのセリフっていうのは、あのときの騒動で言うと「ルックバックのことでミソが付いたと考え藤本タツキをかばおうとしたファン」に重なるんじゃないかなと思ってて。つまり早い話おれのような奴ですね。そういうおれみたいな人に対してちょっと否定的な見方で描いてるシーンじゃないかな。

 でね、その直後にお父さんはこう言います。


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 たぶんこれが、作者からそういう我々へのアンサーで決意表明なんだな、と思いました。勝手にね。

 作者としてはそういう理不尽なことを覚悟で、「読者を傷つけるような表現をするのだから自分も酷いことや傷つけられるだろう、でもそれは読者の君らが心配するようなことじゃないよ。それをどうするか考えるのが俺の商売なんだから口出さなくていいよ」と思って描いてるんじゃないか、このシーンは。おれはそう思いました。

 そして最終的にこの話はどう転がっていくかというと、優太くんがバカにされたりお母さんから殴られたり役立たず扱いされたつらいシーンなんかも取り入れながらも映画を作っていき、かつて酷評を受けた爆発オチを思い切って「これが俺なんだ」って、自信を持ってやるんですよ。「あー、この人は、藤本タツキは本当にちゃんと化け物なんだな」って感じましたね。「そういう修正騒ぎみてえな理不尽でつらいことがあろうが優太みたいに創作のなかに昇華するし、周りに笑われようが何を言われようが好きにやるからガタガタ言うんじゃねえや、漫画家(オレ)のことナメてんのか?」とパンチ一発と説教くらったような感じ。

 この人はきっとペンを持つことを禁じられたら口でくわえてマンガ描くだろうし、口もダメなら足ではさんで描くだろうし、足がダメならチンコに墨つけて描くんだろうな。おそらく岸辺露伴と同じ類の妖怪なんすよこの人。そんくらいの化け物だからきっと何があっても大丈夫なんだな、と思えてこじれた糸がスッと解けました。


 藤本タツキ先生は勝手に元気よくこれからも爆裂した作品を書いていくのだろうから、おれも勝手に読んで勝手にはしゃいでしがらみを忘れてガキのように感想を書いていきます。さよなら絵梨は、俺にとってはそう思わせる楽しいマンガでした。







 じゃあラストの爆発でもう一回笑ってきます。

<了>