12garage

主にゲームと映画についての雑記。

貧乏なおれやおまえたちがsteamで遊ぶべき名作安価ゲーム

よくきたな。おれはAKLOだ。毎月気が向いたときにセールで買ったゲームのレビューを書いてフレンドのアクティビティ欄をやたら散らかすのを趣味としている。自慢ではないがおれはとにかく金が無いのでセールのときにWebmoneyを2000円分だけ買ってつぎ込んだりして苦労しているから安牌のゲームを選ぶことには長けているつもりだ。おそらくこの夏も襲い来るだろうsteamサマーセールを見越して、いつも虎視眈々とウィッシュリストを肥やしている。ちなみにメキシコ風の文体が気になるならこちらのミスタ・逆噴射のブロッゴ記事を読め。

今日はそんな中でも新生活を迎えピカピカのPCをそろえたりなどしたニュービーsteamerにオススメなゲームを挙げていく。はてなMarkdown編集はHTMLタグとMarkdown言語がキメラとなってむしろsteamのレビュー欄より破茶目茶に書きづらいが、とくにこの春から新しく大学生になったやつなどは徹てい的にボンクラにしてやるからかくごしろ。

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FPSでスナイパーライフルをなんとなく使いこなした気になれるコツ

いろんなFPSをやってると、なんかこう、スナイパーをやりたいって方がいらしてですね。たいていBBSとかゲーム系迷惑サイトとかで槍玉に挙げられて大荒れして、肝心要のコツがよくわかんないまま「もういいや…」ってなるじゃないですか。なってたんですよ。この前あるゲームのwiki見てたらね。こういうの何年も繰り返し見てると「なんだかなぁ~」ってなるじゃないすか。
スナイパーをうまく使いこなしたいって方もいらっしゃるんですけど、「とりあえずやるだけやりたい」って人もいるだろうし、そういう方に向けてユルく手引きを書けないかなと思ったので、なんとなく書いていきます。

手間がかかって僕がダルいので画像を載せたりとかはしません。適当に書いてるので皆さんの方でアテにしたりしなかったりしてください。

そんじゃあユルくやっていきましょう。

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今からオートマタを始める忙しい人向けニーアの話

 ニーアオートマタのデモ版が出て、僕のTLの諸兄にズボッと刺さった方が結構いらっしゃったので 「ニーアのネタバレを、なんかうまいことこう…書けないだろうか?」と考え、書いてみることにしました。

 この記事では、心がつらすぎて二週目の序盤でやめている中途半端な状態の自分が、知ってる範囲のことからなんとなくふわっとした感じでニーアのネタバレを書いていこうと考えています。まあ、なんとなくこういうタイトルの記事↑なのでお察しいただけたと思いますが、じっくり語りたいファンの方やネタバレが嫌な方はブラウザバックしてもらう感じでお願いします。

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ふうけいの なかにいる

 柄谷行人って人の本の中で風景の発見という話が面白かったので少し書いておきたい。

 

日本近代文学の起源 原本 (講談社文芸文庫) https://www.amazon.co.jp/dp/4062900416/ref=cm_sw_r_cp_apa_CT-SxbJTC58RW

 

 この本の中で、文学や絵画といった文化に触れながら「風景」というものについて繰り返し触れられている。簡単にまとめるとこうなる。

 一番最初に人間が「風景を描こう」と考えたのは、意外にも人物画を描いたのよりかなり後になってからだった。言われてみれば当たり前だが、自然とは人間にとって邪魔くさい下生えだの、雑木林だの、村や畑を作る上では邪魔でしかなかったので、アニミズムで讃えることはあっても、絵画にして省みることはなかった。

 そのあとで、都会化した人間たちの文化の中で自然を持ち上げる向きが出てきた。木が美しい、ツタは繊細である、などなど。この一連の流れの中にいる人は、自然を美しいものだと考えるようになる。それについてきちんと把握するためには、いちど「自然≒美しい」という直感的図式から抜け出す必要がある。

 つまり、これができず、盲目的に自然は美しい、と考えてしまうことが、「風景」の中にとらわれる、ということになる。

 

……ということである。

 私的に言い換えるならば、「文脈」というのがわかりやすいと思う。

 

 たとえば動物はかわいい、自然は大切。こういったあらゆる思想の裏には、まずそうなるに至った経緯があり、それを知らないまま崇めるのは盲信でしかない。

 商業用にパッケージングされたクマさんはカワイイかもしれないし、そんなクマさんを殺すのはかわいそうだが、かつて三毛別ではいたましい事件を起こしているわけで、その文脈をちゃんと知っていればたとえば「捕獲でなんとかならないか」とか「せめて安らかに殺してあげられないか」といった譲歩案が生まれてくる。

 このようにこういった交渉の中で譲歩、折衝をするためには、相手の文脈を知る必要がある。僕達がお互いに話し合って物事を決めるためには、いや、もはや生きていくためには、相手の思想の背景、文脈を知ることが不可欠なのだと思う。

 

(書くまでもないことではあるが、僕自身も心がけるべきことであるなと思う)

 

レビューしかできない

 僕にとっていろいろなサイトでレビューを書いて時折それを確認するという行為が生活の環の一つをなし始めたのは、およそ五年前だった。最初はたんに素晴らしいものと出会って感情が高まって書くだけだった。次第に評価されることを意識するようになった。別に自分のプライドのためではない。世間の価値観と自分の価値観のすり合わせをするためだった。
 自分には、普段から要領の悪さからくる世の中とのズレというやつがあって、友人と遊びに行くために金を稼ぐ、といったことに頓着が出来ない。それができるのがいわゆる一般的な人間であって、そういった一般的な人間になるための条件が桶の板のように底辺の僕をぐるりと取り囲んでタガにはめられきっちりと見下ろしている。だからその板とのズレを何においても定期的に見なおす必要があった。

 良い物を良い、と感じる感性はどうやって作るのだろうか。僕は観賞や体験の積み重ねによる文法の理解だと思っている。しかし世の中の人はそうではないらしくて、アフィリエイトのためにウソを書きつらねるまとめブログの、卑俗なレトリックに読者を踊らせ、自分たちは巨大なものと戦っているという意識を安全なところから刺激することが、優れた感性の条件になっているようである。
 下世話で悪趣味、という方法が、かつて文学では流行って廃れたという。それが必要なのだ。インターネットの時代には、それが。僕は別に自分が高尚な人間だとは思っていないし、ただ他人を見下す癖があるだけだが、それだけでは単に性格が悪い人間でしか無い。己自身の下世話さをもっと露わにしなければ、下衆さで人を喜ばせなければ普通の人間にはなれない。だからこうして下世話な記事を書いて自分の「承認欲求」を見せているのだ。インターネットで自分を偉いと思っている人たちは須く承認欲求という言葉がお好きなのだから。

 僕は、幾つかの記事を読んで分かる通り、まともな文章が書けない。生活する中で思い浮かぶ文章をそのまま写し取れたらといつも思う。これがズレの正体なのだと思う。文章の順番や話題の統一性というものがどうしてもうまく構築できない。だからこんなふうに話が飛ぶ。
 なので、小説が書けない。確かにこういう、どんどん考えることが移り変わっていく様子を描写している小説はある。しかしそれは普通の小説を構築できる腕前があるからまとまっているのだ。だから僕は比較的箇条書きに近い形で済む感想やレビューという形で、表現をすることにしているのだと思う。
 何においても、なりそこないだと思う。絵は描けない。楽譜は読めない。面白いことは言えない。他人をいじめる側にまわることが出来ない。対戦ゲームはパッとしない。労働に堪える精神力はない。物事を長く続けられない。健康さまで永遠に失われた。
 そんな人間は世の中にゴマンといるだろう。だがそのゴマンは普通の人間だ。そのことに意識を向けない。自分ができそこないということに意識を向けないから日々生活が出来る。その愚鈍さが普通の人間には必要だった。僕にはない。

 「何も持ってない」ことと、戦う気力もない。ダラダラと、缶コーヒーにたまについているチョロQみたいな、惰性の走りを見せるだけにすぎない。何かをする気になってもその火が灯り続けない。
 そういう人間にとっては、やはりその場の情熱だけで書ける感想というのが似合っているのかもしれない。僕にとっては、そこから自分の望む何かになりたいというあがきだが、きっと誰にとっても承認欲求にしか見えないのだろう。

病気を持ってからすっかり日課になった夜の散歩をしていると猫に出会った。大柄な野良猫だ。

しきりに身体を掻いたり背中を地面にこすりつけているのだが、猫は普通いくら痒かったとしても人の前で腹を見せるとは思えない。
これは、と思って頭に手を持っていってみると自ら頭をこすりつけてきた。相当人に慣れているようである。

猫は、良い。猫の媚び方というのは自分本位だが腹が立たない。不安にさせてくることがない。

自分は生来小心者で、加えていろいろと疑い深い性格なので、他人に無償の愛とかいう奴を向けられると相手の正気を疑ってしまう。自分のどこにそれほどのものを向けられる理由があるのかわからないし、相手に身を委ねられてもどう扱うべきか責任を感じて厭な気持ちになる。
かといって、世の大勢の人が楽しんでいる恋の駆け引きとかいう奴もダメで、なぜわざわざ商取引みたいなことをして人と関わらにゃあならんのだ、と面倒くさくなるし、高圧的に恋愛恋愛言われるのも鼻について苛々する。

猫、とりわけ野良猫は、基本的に自立している。彼は彼の生活を自分でなんとかしているから、爪を研いだりするのにいちいち了解をとりに来ない。人間にかまって欲しいのは、そのときに寂しくて必要だから世話してほしいだけで、あとは飯時くらいしか何かを要求してくることもない。
自分のすべての面倒を見てくれと言いにくるのではなくて、ただ猫は、遊びたいから遊ぶ。

私は、それがとても心地よい関係性に思える。常時相手とつながってそのすべての面倒を見ろだの、お前のすべてをジロジロと監視させろだのと言われたら発狂してもおかしくない。
猫はそれを求めないし、彼についてすべて管理させることもしない。猫と人間は並び立った個と個である。これほど素晴らしい関係はない。

私は一通りそんなことを考えながら、気分よく散歩を済ませて帰宅すると、まずは念入りに手を洗うことに決めた。
猫をかまっても、私まで彼と一緒に痒くなる必要はないからである。