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主にゲームと映画についての雑記。

自分よりすげえやつがいるという呪縛に向き合う 藤本タツキ「ルックバック」エッセイ(のようなもの)と感想

 ルックバックを読みました。

 読んでください。

 以下なんか書きます。

 本記事には京都アニメーション放火殺人事件について示唆する表現があり、ルックバック本編のネタバレを含みます。


もくじ


エッセイ(この記事を書いている人間に興味がない人は読む必要がないもの)


 2021年7月19日。

 ツイッターのタイムラインは朝っぱらからとんでもねえ漫画の話題でもちきりになっていた。「ルックバック」。

 おれも読んで、とんでもねえものを読んだな…と感慨にふけり、細かいところに気づいてさらに感極まったりしながら…


 そして猛烈にいじけていた……!



 最初はやはり、スゴイなと思った。藤本タツキは天才だな。マンガの悪魔だな。そう思った。ひとしきりテンションが上がって感想を書きまくった。そうしているうちに、タイムラインにいろんな人の考察や感想が流れてくる。細かいところに気づいてるなあ。そういう見方もあるのか。なるほどな。


 たとえば、最初のコマと最後のコマに書かれた文字からオアシスのDon't Look back in angerを読み解き、「思い出を辛いままにしないで」というメッセージを明らかにした人。そしてルックバックという題名そのものが、「背景を見よ」ということ、つまり京本という背景担当そして背景を描きこむことの素晴らしさを見よという意味だと解釈した人。京本ちゃんのお通夜に供えられている献花が「親戚一同」しかないことに気づいた人。

 それから腕にマニ車つけててファンを「推しアイドルに投票さすための票田」と読んではばからない人の感想。


tomoko.fanbox.cc

 このマシーナリーとも子という人はVtuberでもあるんですが、以前の経歴からしていろんなものを見てる「本物」のライターさんなんでやはり面白いです。たまにからあげの写真ばかりアップロードして「これはApex Legendsの紹介記事だ」と言い張ったりする変な人なんですが、この記事を見ても分かる通り鋭い人です。


 あーすごいな~。みんなスゴイことに気づくなあ。そして思った。

なら…

おれ何も書かなくて良くない?



天才の可視化

 昨今「天才の可視化」ってのが言われてまして、なんなのかっつーと

 インターネット、そしてSNSの普及により「高いレベルの人」がすぐ目の前に出てくるので、物事をやり始める人が自信を失いやすい…

 という言説。

 以前の自分は、あるわけねーだろwwwwwwと思った。いやあるにはあるだろうけどそんな大したことないだろ、と思った。そんなもん今も昔もすげー人なんかいたわと。


 天才の可視化、あった。


 これは藤本タツキ先生だけじゃなくて、ありとあらゆる伏線のある作品や読み解きが必要な作品すべてに言えることなんだけど、集合知がぜんぶ答えを出しちゃう。
 自分がなにか考えなくても、アルファツイッタラーたちとか同人作家さんたちとかありとあらゆる暇人頭のいい人が集まってきてぜんぶ言って教えてくれる。もちろんそれが悪いことじゃない。彼らに悪気があるわけではなく、当然自分がそちら側に回ることもあるかもしれない。でも全部指摘してくれる。元ネタの解説付きで。

 確かに自分の意見を言うということ自体に価値はあると思う。それにFGOの虚月館イベントみたく、みんなでワイワイ考察しあってミステリのトリックを考えて答えを予想するのも楽しい。ただでも、なんか、まわりですげー人がすげーこと言ってるので、おれ何も言わなくていっかぁ…という気持ちになってくる。それに万が一感想を書いてみて、それが読み間違いだったり本編で存在しなかったりすると恥ずかしい。めんどくせーやつにチクチクなんか言われるかもしれない。だから一番間違いないのは、その人達のpostをRTして思ったことを仮託すればよいということになってくる。
 あるいは、誰にも見つけられてない気づきポイントを必死で探して、「これ尊い!!!!!」と言わないと、なんだか自分の力で気がついて感想を書いている気がしなくなる。なのでめっちゃ読む。細かいところまでジロジロ見て考えてみる。

 なんだかだんだん、自分がこの作品に対して良いと思ったから感想を書きたいのか、あるいは気づいたポイントを誰より早く天に掲げて「おれが気づきました!」とビーチフラッグやりたいのかわからなくなってくる。そうして世の中の片隅の鍵アカウントで、おれのいいたかったことが空中でフワフワしている間にも有名人がどんどん言葉のかたちにして共感のRTを大量獲得していく。自分の考えがなんだかそのへんの石ころみたく思えてくる。



 そしておれは…猛烈にいじけはじめた。三十路手前で本気でいじけてしまった。いーよ。どうせおれよりすげえ記事書くネットの有名人いるし。そいつらにチェンソーマンの考察もずっとやられとったし。ええよもう。それはもう情けなくいじけた。

 で…


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 ヤケを起こして記事を書き始めた。




ルックバックの感想(本編)

 ルックバックについてはもう正直言われ尽くしていて、あの痛ましい京アニ放火事件をそれとなく暗喩している…とか、もうおれが言う必要もないと思うんだけど。
 作家さんの突然の逝去についてはおれも思うことがあって、面白い話をしてくれる人が亡くなったり、皇国の守護者のことや高畠エナガ先生のことを思い出して辛くなってしまった。たぶん人の数だけ当てはまる喪失のカッコがあるんだろうな、これは。

 でもね、この作品、すげー呪いの話だと思う。いい話なんだけど、作品作る人にかかる呪いの話でもあると思う。なにかを作ることがやめられなくなる呪い。


天才の可視化(自分よりすげーやつがいる呪い)

 先ほどおれが三十手前でなさけなくいじけたことがそのまま藤野ちゃんの身に起こっている。

 藤野ちゃんに対して、なんだか知らねえが京本とかいうめちゃくちゃうまいやつがちょこちょこ自分の作品の横に掲載してくる。そうするとどうなるか。とりあえず頭来るのでやれるところまでやってみる。でも、次から次へとやったり作ったりするたびにすげえのを出してくる。これが藤野ちゃんにはめちゃくちゃ面白くない。自分も努力して前へ進んでみるけど、才能があるやつはすでに何十歩も先を行きながら自分と同じかそれ以上のスピードで進んでるので、絶対に追い越せない。ここの藤野ちゃんはスゴイと思うよ。二年もこんな化け物と競い合ったんだからね。

 で、「や~めた……」になる。それで終わる。カラオケ行く。ここで絵を諦めて姉ちゃんとカラテを始める。これが「自分よりすげーやつがいる」という呪いの顛末で、いっとき自分を燃やし尽くして頑張るんだけど、だいたい自分と比較して嫌になって終わる。そのはずだった。


生きて/アキくんは死なないでね の呪い

 ところが、とうの京本ちゃんに「藤野先生は漫画の天才です…!」と褒められてしまう。
 これはね、特大の呪いですよ。これを言われたらやめられなくなる。なぜかというと、藤野ちゃんにとって京本ちゃんは自分よりすごいやつだから。


 もちろん、どんなかたちでもファンに貴賤はなく、読んでもらえればありがたいもの。でもそれに輪をかけて、この場面での京本ちゃんは圧倒的に藤野ちゃんより上(だと本人は思っている)なので、そうすると「自分よりすごいやつは見る目もきっと確かなので、おそらくそいつの言うことは正しい」というロジックが成り立つことになる。しかも実際に二年かけても勝てなかったすごいやつの言うことなので、否定するのは難しい。
 ここでとっさに藤野ちゃんが次回作の話をしだしたのは、背伸びしたりごまかしの照れ隠しでもあるんだろうけど、「自分よりすごいやつにどこがすごいのかまで言われてしまったので、後戻りできない」という心情なのではないかと思う。こうして藤野ちゃんはマンガを続ける情熱を取り戻し、そして作ることをやめられなくなった


 自分よりすごいやつに褒められてしまうと、恐ろしいことにそうそう卑下できなくなる。



 これは花沢健吾アイアムアヒーロー」の序盤にもあるけれど、たとえば主人公の英雄に対して中田コロリという人物は、彼女と付き合っていたことがあるすんげえ憎い人気作家なのに、自分の漫画家としての才能を誰より認めてくれて面白いネタの話もしてくれる。そのせいで英雄はより情けなくなってしまう。認められてしまうので自分を蔑むという逃げ場も消されちゃうんですね。

 それと並べていいのかわからないけれども、おれ自身もあった話で、あるラッパーの人に自分の記事が取り上げられて褒められたときもうなんか、後戻りできない感じが一瞬あった。ず~~~~~~~~~~~~~~~っと何年もボソボソゲームの記事を書いてて、書きまくって、好きなゲームについて怒り狂って書いてたら、急にパッて舞台に上がってスポットライトが当たった。もちろん記事のネタ自体の求心力のおかげであっておれの力だけではなかったんだけど、せっかく見出して読んでもらっている以上これまで細々とやってきたのとは違ってあんまり自分の記事を場末場末言えないな…と。そうするともう、やめらんなくなって作るしかなくなる。



 おれこれ記事書いてて読んでもらってて言うのめちゃくちゃ性格悪いしどうかと思うんだけど、生きろとか、スゴイとか、君は上手いねとか、そういうのってすごく言い方悪いけど祝福であり呪縛なんですね。誰かに評価されてしまうと人は決定的におかしくなり、ものを作ってしまうんですよ。俺は…俺は普通だったのに…君のせいで今大変なんだから…


自分を大したことないと思ってるやつの作品が天才を突き刺すことがある

 そして物語の佳境で藤野ちゃんが後悔してただ卒業証書を置いていくだけの展開になる。
 このIFのシーンで恐ろしいのは、藤野ちゃんがあの場で何をやろうが、京本ちゃんの人生は勝手に彼女の意思で進んでいき、やはりおなじ美大に行き着くということ。
 でもそこで重要なのが、そのずっとまえに学級新聞にふたりで載せたマンガのことをずっと覚えていて、いっちゃあなんだけどとっくの昔に京本ちゃんの人生は藤野ちゃんの才能に呪われていたということでもあるんです。それが彼女の「背中を見て」を読んだあと、あのドテラのサインを振り返ってわかる。

 おれはここにこの漫画の全部が詰まってると思っている。何かというと、自分が引け目を感じてずっと自分よりすごいと思って勝てないまま去った相手をいちばん狂わせてしまったのが、それにくらべて大したことのないはずの自分だった。だから、ファンであり友達であり、そして確固たる審美眼で自分の才能を信じてくれた相手のために続けなければいけないという極めつけの呪いと祝福が表現されている。
 これはほんとうに恐ろしいよ。どんなに才能がない、作る意味がないと自分で思っていても、作っていれば自分よりものすごい上の才人のこころを突き刺してしまうかもしれないし、きっかけになってなにかを作らせてしまうかもしれない。生涯ずっと自分のファンでいてくれるかもしれない。それってめったに無いことかもしれないけれど、ありえてしまうかもよと藤本タツキはこの漫画で言っている。


 もちろん京本ちゃんと藤野ちゃんの友情と、そして消失を乗り越える話でもあるんだけど、お互いに「生きて」と自分たちの才能で呪いあい祝福しあうふたりの話ではないかとおれは思っています。
 まあでも、二人が幸せだったんだから、たぶん呪いじゃなくて祝福だったんだろうね。


概して、この「ルックバック」はなんだったのか


 これはたぶん、西尾維新でいう「少女不十分」だったんじゃないかとおれは思っています。

 

悪いがこの本に粗筋なんてない。これは小説ではないからだ。だから起承転結やサプライズ、気の利いた落ちを求められても、きっとその期待には応えられない。これは昔の話であり、過去の話であり、終わった話だ。記憶もあやふやな10年前の話であり、どんな未来にも繋がっていない。いずれにしても娯楽としてはお勧めできないわけだが、ただしそれでも、ひとつだけ言えることがある。僕はこの本を書くのに、10年かかった。


 たぶんこの西尾維新ファンでも読むのに苦心する奇々怪々な本を今から読もうという人もそうはいないと思うのでざっくりネタバレしてしまうが(一応反転)、西尾維新の作家としてのオリジンを描いた自伝…にミスリードさせる小説である。この本の中では雰囲気に流されやすい大学生の主人公が女の子にカッターで脅されて監禁されるも、その少女がいびつな檻にとらわれたままであることに気づき、まるで西尾維新の過去作のような「いびつなままで生きていったっていい物語」を作って聞かせてあげる…という、荒唐無稽なフィクションでありながらも西尾維新本人の信念を表明する物語が描かれている。

 たぶんルックバックも意図するところは同じなのではないかな…と。
 まず、ルックバックは当然この事自体が起こったわけではないだろうし、間違いなく藤本タツキ自身のそっくりそのまま私小説的な作品ではない。京アニの事件を自分なりに折り合いをつけながら、エンターテイメントとして昇華したのだと思う。でも、自分の過去作をパロディとして出していて、「こういう理由だからこういうことをやりたいと思ってます」のコアの部分にだけはウソついてないと思う。これはつまるところ藤本タツキの信念の一部を脚色して青春マンガにしたフィクションの物語であり、もちろん全てではないけれど、 読者に対する語りかけだったのではないかなと。



 やはり、スゴイなと思った。藤本タツキは天才だな。マンガの悪魔だな。そう思った。

 だって自分よりすげーやつに勝てなくてみじめに諦めても、「もしかしたら誰かを熱中させて狂わせているかもしれないよ」なんて言われたら、そんなん書き続けるしかないじゃないですか。


<了>