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主にゲームと映画についての雑記。

「ファイアマン」にされたルックバック ~ 自由と危惧の天秤

 ルックバックが修正されました。



 読んでください。

 以下なんか書きます。  

もくじ


発端

anond.hatelabo.jp

togetter.com

 2021年7月19日、読み切りとして掲載された藤本タツキ作「ルックバック」に対して、はてなアノニマスダイアリーに一件の記事が投稿され、以降その当人によってツイッター上で展開された主張がTogetterにてまとめられました。

 それを受けてとは言い切れませんが、ジャンプ編集部により当記事冒頭のとおり、ルックバック本編に一部修正が施されました。


なぜ、犯人を精神疾患だと"決めつける"のか

 この報をタイムラインで目にしたとき、私は正直に言って落胆しました。

 もちろん、以前からこのような話題がいわゆる増田で持ち上がりつつあることは知っていました。私自身臨床心理をかじっていた程度で浅学の身の上ではありますが、統合失調症の方が生きていきやすい、苦しみの少ない社会にすべきという考えは大いに賛同できます。しかし私としては、ジャンプ編集部が毅然とした対応を取るべきだと考えていました。それゆえ落胆を隠せません。

 それは、このルックバックという作品において「犯人は統合失調症だ」という記述はないからです。主観として私自身この作品を読んで統合失調症を思い浮かべることもありませんでしたし、無論、客観的に作品内でも精神病だという記述もありません。記述がない以上それは「犯人は統合失調症ではないか」という主張はある人の"解釈"であり、私のように違う"解釈"をする人もいます。解釈の域を出て真偽をただすには(事実上不可能ではありますが)直接このキャラクターに接し、鑑別するほかありません。このキャラクターが精神疾患をわずらっているかということについても同じです。


 いえ当然、揚げ足取りのつもりはありません。ルックバックを読んで悲しい気持ちになった方を責めようというのではありませんし、"直接書かれていないからそうではない"を文字通り振り回すような乱暴な意見を申し上げるつもりもありません。私が言いたいのは、なぜ精神疾患だと決めつけるのか理解できないということです。今回の話題で筆頭にあがるTogetter記事にてYANA1952氏がおっしゃる、恐怖を感じるといった心情自体を否定するものではありません。個々人の見方で解釈し、そのように感じること自体はまったくおかしなことではないと思います。しかしこの方を始めとして、なぜ「統合失調症の患者が人を殺すマンガ」だと思われ、「まちがいなく、統合失調症患者への偏見を助長」すると断定し、抗議されているのか。それが疑問なのです。

 「統合失調症(もしくは精神疾患)に見えるキャラクターが殺人を犯したことにショックを感じた、不安になった」「統合失調症の人が人を殺すわけではない」というところまでは、心情として理解できます。そう解釈し、万が一にも差別を助長されることがないようにと感想を発信されること自体は大いに同意できます。しかしこのキャラクターが"統合失調症(もしくは精神疾患)だ"と断言されるのであれば、強い言葉を使って大変申し訳ないのですが、失礼千万です。


 人にはそれぞれ、異なった事情があり、異なった性格を持ち、異なった人生の足跡を持ちます。この犯人のキャラクターも非実在とはいえ、辿ってきた人生があり、それは我々にはうかがい知ることはできません。描写されていないからです。描写されていないのだから、我々読者の考えは解釈に過ぎないのです。断定はできません。そこへ行って、たとえばいくつかの症状の符合でもって「この人は統合失調症です(もしくは揶揄しています)」と言い切るのは、むしろそれこそ決めつけであり差別ではないでしょうか。幻聴を聞いたからといって、その人が統合失調症かはわかりません。これは偏見を助長する意図はありませんが、レビー小体型認知症がなんらかの理由で発症したのかもしれませんし、あるいは単純に"幻聴が聞こえているフリ"かもしれません。この犯人が本当に幻聴が聞こえているかを確かめるすべもありません。そして当人に、それまでの人生からどうしてもそうする必要があったのかもしれません。それを"統合失調症"として外部が勝手に決めつけるのは、架空の殺人犯のキャラクターとはいえ、その当人の尊厳と人生を踏みにじる行為ではないでしょうか。

 要するに、来歴も素性もわからないキャラクターを精神疾患統合失調症を差別するための権化であるとするのは、それ自体が偏見ではないだろうか?ということを申し上げたいわけです。



差別を助長する「おそれ」で表現を修正させて良かったのか?

 また、こちらの記事では精神科医の観点から記事を書かれており、大筋としては納得できますが、やはり引っかかるところがあります。


note.com


 筑波大学の先生がおっしゃることに曲学阿世の徒である私が物申すのもおこがましいということは重々承知していますが、

 もちろん、本作を読んだだけで偏見が強化されるとまでは思わない。スティグマとは、常に集合的に形成される「ネガティブなステレオタイプ」のことなのだから。だからこそ、本作のような傑作がそれを強化するピースの一つになることは、なんとしても避けてほしいのだ。そのためには「そこに偏見がある」という強い主張がどうしても必要だった。


 このくだりには少々疑義を挟まざるを得ません。

 こちらの記事では重々、「これは診断ではなく」ということわりを入れておられて、さすが臨床心理の前線に立っておられる方だと思います。諸要素のみをもって遠隔でなんらかの精神疾患だと鑑別することは非常に危険であり、当然やはり、そのことを理解しておられるのでしょう。その後、当事者側の目線で意見を出されていることも重要だと思います。
 しかしスティグマのひとつとなることを避けようと「ルックバックに偏見がある」という主張を必要以上に強く打ち出したがために、"ルックバック側に"スティグマを残す結果とはなったと言えないでしょうか。


 確かに、ルックバックを通して多種多様な読者が目を通したとき、統合失調症の当事者側が不安を感じて自主的に行動を起こすこと自体は私も自然なことだと思います。しかし非常に残念ながら、今回の場合統合失調症への偏見が本作で強化されたかは定かではない。差別をうながすかどうかという大事な根拠が、"疑わしき"もしくは"人により(そう見える)"で止まっているのです。
 今回の場合、この"疑わしき"で見切り発車をしてしまった感が否めません。無論不安に思って「先手を打とう、差別が起こる前に対策しよう」という当事者意識は理解できます。ですがあやふやで煮詰め足らずなまま、「抗議する」という強い主張からスタートしてしまったのは悪手と言わざるを得ません。
 後出しの意見で大変申し訳なくはあるのですが、たとえば「抗議」のまえに、平和的にジャンプ編集部側への交渉や問い合わせ・すり合わせ、説明を求めるといったところから始めても良かったはずです。話し合いから始めていれば、そのなかで何が問題の本質なのか、集英社内部にじっくりと理解してもらうチャンスが生まれ得たと思います。

 ところが「抗議」の結果、当事者からの対話は閉ざされ、ただ修正されたルックバックが公開されただけです。ルックバック冒頭のことわりこそ「熟慮の結果」とありますが、本当のところは当事者とは関わらず問題の洗い出しも行われないままただ無難な表現に差し替えるだけという、深い断絶が生まれてしまっただけです。


 そしてさらにまずいのは、もともとルックバックを読んで統合失調症のイメージが想起されず、純粋に差別なく読み終えた人々にとっては"いきなり修正された"という事実だけが唐突に現れた格好になっていることです。
 たとえばある程度SNSやインターネットに習熟している人ならば、今回の一連の文脈を掘り起こすことができるでしょう。ああ、そういう経緯があったのだなと大なり小なり納得できるかと思います。しかしたいていの読者にとっては、「特になんとも思っていなかったのに、急になんだか抗議する人たちが出てきて、ルックバックの読書体験にミソがついた」という印象になる。

 確かにルックバックを通して、傷ついた人々がいるかも知れません。自分のことを言われている、もしくはこれで差別が広まると恐怖した方々もいたと思います。だから今回のような行動に出たのでしょう。ですがルックバックを通して救いをもたらされ、純粋にその内容に感動した人々がいるのもまた事実です。そういった人々にとっては、抗議ともたらされた修正によって、はからずとも「ああ!あの差別を助長するからって修正されたルックバックね!」と言われ続けるのです。偏見を抑止するはずがこのような偏見を生んでいくわけです。残念でなりません。

 抗議されるのであれば、そこまで考慮して行動をされるべきではなかったのかな、と私は思います。
 統合失調症の方々をはじめとし、社会的に弱い立場におられる方は確かに手厚く保護されるべきですし、権利を主張してしかるべきシーンもあります。それは"正しい"です。しかし保護されるべき方々だから、そういった方々にスティグマを作らないためだからといって強行的に押せば、その裏で多少なりとも誰かの権利や尊厳が轢き殺されるのです。
 確かに、社会的に厳しい立場にある人々はことさら強く守られるべきかもしれません。しかし偏見を助長する"かもしれない"というおそれで行われた今回の修正の結果、少なからぬ読者が失意を味わいました。そしてなにより100ページ超を描き上げた作者の藤本タツキ先生は、作者側からの申し出とはいえ、自身の持つ表現の自由を曲げ修正を強いられることになりました。抗議によって代償なくすべての人が幸せになったわけではない。他の読者が作品を楽しむ権利、そして自由に表現して描く創作者の権利が犠牲になっている。そこには大きな流血があったと言わざるを得ません。"強い主張"の結果もたらされたその流血は決して軽視されるべきではないと思います。
 この言い方は非常に良くないとは思います、本当に良くないと思いますが……被害者だからって加害者にならないことはないのです。

 


いささか疑わしい点

 上記とは別に、そもそも今回の出来事のきっかけとなったYANA1952氏についても私は少々疑念を抱いています。


  togetter.com


 無論、過去「矢那やな夫」としていわゆる釣り師をしていたことを公表し、謝罪を入れたことについては評価されるべきことだと思います。私も個人の過去を掘り起こして攻撃するのは良くないことだと思っています。
 ただ…しかし…限度は超えている、と思います。少なくとも、ルックバックに対して抗議を行うにあたって100%悪意なく統合失調症の方々のために戦っている人とは思い難いです。
 つらい思いをしたと語る方々の気持ちをないがしろにするつもりはないですが、そういった部分をふまえてここまでの抗議側の主張を見ていくと、どうしても第一人者が信用しきれない以上、根底から主張が揺らいでしまうと思います。


 大人の節度として私の胸の内を明言するのは差し控えますが、藤本タツキ作品のいちファンとしましては、こういった方の主張を鵜呑みにして過激な発言をされていた方は少々身の振り方について考えていただきたく存じます。


ジャンプ編集部の責任

 そしてこの件ではジャンプ編集部も責任を追求されるべきだと思います。

 そもそも"ルックバックを掲載して良し"としたのは、ジャンプ編集部の許可あってのことです。つまり編集部の査読が入っており、これで社会的に問題なしとして太鼓判を押したからこそ掲載されたわけです。
 私個人はルックバックで精神疾患への差別を助長されたとは思っていませんが、仮にそうであったとしたらジャンプ編集部が止めに入り、相談の上で作者が納得する表現とすり合わせられたはずです。そしてそれでもなお作品が非難されたなら、まず編集部が矢面に立って釈明と謝罪を発表すべきではないでしょうか。


www.jiji.com


修正部分や理由については「説明することで偏見や差別を助長する恐れがあるため、回答を差し控える」とした。

 ていのいい理屈ですが、結局フタをしただけではないですか。

 そもそも問題があると認めるなら掲載を許した編集部が前に出て説明するべきですし、それを曖昧にごまかすのはあり得ません。そして一度問題無しとして掲載を許したのであれば、きちんと作者の表現の権利を守り通してこそ編集部の責任が果たされるのではないのですか?
 先述したとおり、抗議という強い主張を用いたせいで火の粉を払うような対応になったのだろうとは思いますが、それはそれとして編集部の説明責任は果たせていません。あの短いおことわりひとつをもってことを済まそうというのは虫が良すぎるとしか言えませんね。

 結局、てんやわんやの騒ぎの割には何も解決していないのです。私はそこにこそ目を向けるべきだと思います。



最後に



 ファイアパンチという作品を知っていますか。
 ルックバック、チェンソーマンより前、藤本タツキ先生が描いた連載作品です。


 一話無料なので読んでいただければわかりますが、この作品の冒頭で人肉を食っていたという理由で村が燃やされます。
 ただそれは実のところ、再生の能力者であるアグニが村人から受けた恩に報いるため、納得の上で手足を切って渡していただけです。食料が足りず、細々とそうして生きるしかなかったという理由がある村に対して、ドマはきちんと理由も聞かず「国王ならそうする」と焼き払います。
 アグニはドマの消えない炎に焼かれながら、たったひとりの肉親である妹を殺され、無限の苦しみを憎悪で塗りつぶして立ち上がるのです。


 素晴らしい作品を、自分の主張に援用するようで申し訳ありません。でもどうかわかってください。

 ドマにならないでください。
 べヘムドルグにならないでください。


 一見ものすごく気持ち悪い表現があるかもしれません。恐怖や不安をもたらしたり、誤解をもたらす表現が、この世にはたくさんあると思います。でもそれを燃やさないでください。話をしてください。
 怖いという気持ちはわかります。でも、どうして受け入れられないと思ったのか、どうして自分に恐怖をもたらしたのか、あなたの考えをきちんと話してあげてください。






 とてもみみっちく暗いことを長々と書いてきてすみませんが、これが私がこの記事で言いたかったことです。
 明日は私にとっても、誰にとってもいいことがあるといいですね。









<了>