12garage

主にゲームと映画についての雑記。

頭の中では海賊になれるし、小学生を襲う想像をしてもいい。趣味思想に“社会的責任”を問うのはマズいぜという話

※タイトルについては、内容の関連性により取り扱う記事に寄せさせていただいた。挑発や揶揄の意図はなく、真面目に書かせていただいているのでご理解いただきたい

注意!本記事では多少ながら性犯罪について言及する部分があるので、関連したPTSDをお持ちの方は無理に読まずに置くことをおすすめします

※2020/09/02更新 表現を一部訂正、オペラント条件付け周りの文に加筆

 最近SNSを騒がす、ラブドールの紹介ツイートに関連する議論。そのなかで、ある記事が話題になった。


note.com


 その記事についてある違和感を持ったので、「これはこうじゃないか?」という自分なりの意見を提示していこうと思う。
 先に断っておくが、これは記事を書いた方への全否定や誹謗中傷やバッシングではなく、こういう考え方、我々はこのようにすべきではないかというつもりで書いていく。



大本のプレゼンは何がまずかったのか

 この騒動において、大喜利祭りなどで論点がどんどん地すべりしているような気がするので、個人的な観点ながら問題のポイントをまとめさせてもらった。

発端

 もっとも是非を問われるべきポイントは、某氏がショタドールをプレゼンするときに、「性犯罪者になる前に」という余計な一文で煽り立て、ラブドールを現実の性犯罪と根拠なく紐付けしてしまったことである


 ドールというのは皆さんご存知の通り洋服を着せたりして愛でる人も多く、必ずしも性行為や小児性愛に関係するものではない。もちろん性的な使用をする人もいるが、だからといって現実の少年へ性欲を向けているかというとイコールではない。これはラブドールも小さいドールも同じことである。そんなところへあろうことかそこへ性的な目的でやってきた人が、さも代表かのように「性犯罪者になる前にこれを使え!」とプレゼンしてしまった。

……ので最初の被害者は現実の男児どうこうではなく、これまで平和にやってきたドールのオーナーである。

「は?」
というのが巻き込まれたドール界隈の方々の第一声だったのではないかと思われる。


LGBTQを持ち出して論点ずらしを行ったこと

 何を愛そうが別に罪でもなんでもないし、ふつうのことなので今回のことには関係ない。ただ、子供と性行為を行う(面倒なので何歳とかは省く)ことは日本の法律に反するので、子供との性行為を現実で行ってはいけない。

 ただ、今回のことは先にも触れたとおり「ラブドールを現実の少年への性犯罪と関連するかのように書いて喧伝したこと」が第一の争点になっているので、(別口で論ずるならともかく)これは今回の件とは関係がない。

 ちなみに「子供と大人が性行為を伴わず異性として交際すること」は法に反さないし、合意の上でそういう人生を送る人もいることは頭の片隅に置いておいてほしい。(三船美佳さんと高橋ジョージさんがそうですね)

ドールの紹介についての話題が、(先の煽り文のせいで)現実の性犯罪問題にズレていっていること

 この話題に関して大本を辿れば、「ドールが性犯罪者の衝動を抑える効果があるか」とか「性犯罪を犯した人のドール所有率」とは全く関係がないさも性犯罪と相関するかのような煽り文を素人が書いた、という大事な部分がスッポ抜けがちである。

 自分は犯罪分野に明るいわけではなくたいへん恐縮だが、学習心理学犯罪心理学発達心理学・児童心理学など、臨床・社会のアプローチから四年ほど大学で心理学を専攻していたので、なんの統計も取らず、科学的根拠や研究にもよらずダラダラと現実の犯罪の話にスライドしているのは正直少し疑問に思わざるを得ないところがある。ワイドショー程度のダベリのつもりならともかくとして、正直こんなタブロイドネタでは子どもたちの将来を憂慮するとかそういう話には到達していない
 マジに子どもたちの未来を案ずるなら統計くらいは警察庁のウェブページから引っ張ってきたほうがいい。


件のブログについて

 件のブログを読んで、ある程度納得をした。確かに大喜利をやっている層はズレすぎている。これについては大半がそうで、何が問題なのか考えるよりも大喜利で祭りをやることにシフトしてしまっている人が多いのは否めない。仮にそれが皮肉を込めてやっていてもだ。
 個人的な感想を言えば、物事を重く真面目に捉える点においては、この記事の筆者さんは信頼できる人だと思う。


しかし、結論づけていることが私とこの筆者さんの間では決定的に違う。

具体的にはこのくだりから。

これはもう、ケースバイケース!!!としか言いようがないだろう。ラブドールで発散することで、実在児童への性的加害欲求が抑えられる人もいれば、ラブドール使用によって実在児童への性的加害欲求が助長されてしまう人もいる。異論はあるか?ないだろ?


ある。

 発散するか助長するか何らか影響があるだろうという姿勢でおられるようだが、そもそもドールの使用が性犯罪に影響しているかということは、十分に公平性に配慮した統計と調査結果を用いて話すべきであって「関与しているかもしれない」レベルでは何も確定させられない。影響があるか以前にドールが関係しているかどうかというデータが何もない。それは統計の数字が蓋を開ける世界である。データがなければご本人の言う通り、「危惧」にとどまるのみである。
 ご心配はごもっともだが、「ケース・バイ・ケース!!」でむりやり「ラブドールを使用することはどっちにしろ性犯罪に関わる」という前提をでっちあげるのは乱暴すぎる。
 はじめの部分はともかく、データも何もないドール所持者への偏見だけの前提を組み上げてしまったこの時点で、あとの言葉に軒並み論拠がなくなってしまった。


 ここにおいて…… 筆者さんは少し冷静さを保ったほうがよいのではないか、と思う。揚げ足を取るつもりではないが、"慎重に取り扱わなければいけない表現"だった。


 何の趣味を持っている人は性犯罪に関与しやすいとか「可能性がないとは言えない」などというのは非常に危険な話であって、一歩間違えれば差別的思想に堕ちかねない。誰かをさして「犯罪に踏み出す可能性がある集団」とレッテルを貼ることへの重みを理解してほしい。
 「加害欲求が助長されてしまう人もいるかもしれない」という印象論をむりやり拡大して、ラブドール所有者に加害欲求がある人いるよね?いないってことはないよね??と下世話に悪魔の証明で決めつけていく態度は、かなり危ういと申し上げざるを得ない。さらに言えば、人の頭の中でどんな欲求が繰り広げられていても自由だし、それを責められるいわれはない。


また、このくだりについてだが


まず、認めてほしいがフィクションは現実に影響を及ぼす。認めてほしいが、というよりみんな認めているでしょう。だってこれが、「海賊漫画にあこがれて航海士になりました!」って話なら、みんな喜んで受け入れるでしょう、きっと。

スポーツ漫画にあこがれてプロになった人、アニメの聖地に移住した人、実在するでしょ。例を挙げれば枚挙にいとまがない。 それをみんな、「フィクションが現実に影響するなんてありえないww」なんて言ったりしない。

だけどもこれが、犯罪を助長するだのなんだの、要するに「悪い影響」への言及となると途端に、「フィクションに影響されたりしません」って論調がたっくさん出てくる。それはダブルスタンダードというやつだ。


 ダブルスタンダードではありません。

 犯罪をすることと航海士になる場合に必要な心理的ハードルが、実際問題、この日本という法治国家では違うでしょう。
これについては手前味噌ながらオペラント条件付けの「強化子」を例に挙げて以前記事を書いたので、時間があればご覧頂きたい。


12garage.hatenadiary.jp


 記事をかいつまんで説明すると、アニメや漫画、サブカルチャー「だけ」で犯罪に扇動することは至難の業で、だからこそ犯罪組織やテロリストはあの手この手で薬物や金銭を与えたりするという事を書かせてもらっていている。
 「フィクションが現実に影響を及ぼす」と仰るが、ではどのくらい?ということは無視して強引に話を進めていくのは、あまりよろしくない。犯罪に関係があるかないかでいえばこの世の全ては犯罪に関係する。その割合を科学的に解き明かしてこそ意味があるはず。


 また、次のくだりにもやや論理の乱雑さが見られる。


マジのマジレスするけど、現代日本で生活を捨てて船を買って海賊になるのと、その辺を歩いている小学生を暴行するのがなぜ比較になると思うんだ。考えてみてくれ。私は多分一生かかっても海賊にはなれないが、小学生を襲うなら明日にでもできる。その後捕まろうがなんだろうが、児童の心に一生消えない傷を残すことが可能だ。明日にでも。

 「その気になれば」とはよく軽々しく言われるが、夏休みの宿題をドッサリ積んでしまった学生が「その気」になるハードルを思い出してほしい。あるいは、絶対やりきれなさそうな仕事を定時内に終わらせようという気になるためのハードルでもいい。犯罪ともなれば、「その気」のハードルの高さはそれらとは比較にならない。
 肉体的に可能不可能という話をするなら、その気になれば「小学生を襲える(able)」だろうが、我々には"社会規範"という負の強化子があることを忘れてはいけない。義務教育を受け、あるいは自分の苦しみから他者の苦しみを想像して学び、犯罪を起こそうという気持ちを忌避する動機がある。そうでなくとも、ある程度の思考能力があれば「犯罪なんかやれば家族にも迷惑がかかる」「職を失う」という答えに至り、損得勘定によって思い止まる。

 その気になればと口では言うものの、"明日にでも"と筆者さんの何気なく言っているそれが「その気」のハードルを表している。やる奴は"今すぐに"やる。凶器がなければ盗んでくる。夜中だろうが押し入って攫う。本当にやるような犯罪者はなんだかんだとやらない理由を探さない。ほとんどの人は実際のところ、こうして筆者さんのようにちゃんとやらない理由を探す。「そんなことしたら犯罪だから」「そこまでするメリットがないから」「いまの生活を失いたくないから」「前科がつくから」「あした仕事があるから」「バイトがあるから」「人目につくから」「ダルいから」"だから"漫画やアニメに影響されようが、犯罪のハードルは高い。一方で航海士になることは犯罪ではないので、能力面での敷居はあれど犯罪に走るより圧倒的に心理的ハードルは低く、たいていは社会からも阻まれない。
 大喜利のしょーもなさについては同意する部分があるが、海賊漫画を読んで航海士になる人を褒めるのと性犯罪者が小学生を襲うのを分けて考えることについては大きな違いがある。"だから"比べられない。そこに矛盾(ダブルスタンダード)はない。


 また、参考までに鑑別所で法務技官をされており、論文を書いたりもしている準教授の方の記事を載せておく。

hanzairionshou.cocolog-nifty.com


 何らかの犯罪をやってきたわけであるから、まずは、その犯罪から逃れようとしてやっていない、と言ったり、犯罪の内容をある程度認めた場合にも、できるだけ自分の罪が軽くなるように嘘をついたり、あるいは、嘘をつかないまでも、しゃべることを拒否したり(これは黙秘権という認められた権利である)、どうにも罪を逃れ得ないとわかると、自分の処分を軽くしようとして、自分に都合のよいような話を作ってしゃべりだしたり。


 「漫画やアニメのせいでやりました」と供述する犯罪者らの言葉を鵜呑みにするのは、少し考え直したほうがいい。


 どのような人でも犯罪の加害者になりうるから自戒しよう。これはわかる。
 でも「こういう趣味だから加害性がある」「趣味嗜好に対して社会的責任を持つべき」という結論は、人の頭の中の自由まで踏みにじり、ただ穏やかにその趣味に携わってきた無辜の人々を傷つける。

 趣味嗜好に加害性があるかどうかというのは、「この趣味を持っているやつは危険だ」という話に繋がりかねない。趣味の加害性というより、それを現実で実行してしまうような価値観が醸成されてしまっていること、実行に踏み切りやすい環境が絡み合っている。犯罪に趣味の影響が否定できないというのなら、友達や同僚の言葉、上司の態度、振るわれてきた暴力、犯罪組織とのつながり、恐喝、生活の困窮……そういう要因だって同等に影響している。犯罪と人の心は趣味だけで決定されるほどシンプルではない。筆者さんが真剣に捉えておられるのはわかるけれど、それこそ「性犯罪者になる前に!!」と言い出したなにがしと非常に近い発言ではないかと思う。どのような趣味でも関係なく、ゾーニングをしっかりしましょうというのが、最も穏当な「落としどころ」ではないだろうか。



執筆後記(と、本編で切り分けた問題についての話)

 ここから先は 今回の記事を書くにあたって切り分けた話を、蛇足程度にしていく。

 今回の記事では、問題の発端である「某氏がショタドールをプレゼンするときに、「性犯罪者になる前に」という余計な一文で煽り立て、ラブドールを現実の性犯罪と根拠なく紐付けしてしまったこと」というポイントに絞り込んで話をしたので、いろいろと「発端の問題とはちょっと違うよね」と切り分けてきた。ここについて話していく。

 それは、趣味嗜好の「出し方」つまりゾーニングについて。
 これについては、そもそもの発端とは関係ないけれど、かなり取り組むべきテーマではある。

 本編で述べたとおり、どのような趣味嗜好も、胸のうちに抱いたり、あるいは喋ることも自由だ。それは公共の福祉に反しない限り……自由だ。しかしながら、直に表に出してしまうと間違いなく反発は免れない趣味嗜好もある。


闇は闇の中へ グレーはグレーの中へ


 実を言うと……自分もあまり表に出せない趣味がある。調べればすぐわかることだし、ジャンル名を出すと界隈に迷惑がかかるのでここでは明言しない。
 この趣味はまず理解されない。理解されないことがわかっている。しかし、自分がこの趣味を持っていることは悪いとは微塵も思っていない。なぜなら、この趣味で人に迷惑をかけたこともなければ、かけるつもりもなく、そうである限りは思想の自由によって干渉されないことが保証されているからだ。

 本編の中でどの趣味に加害性があるか、ないかを決定することは危険だと述べた。それはこの通り、「自分がその趣味を持っていることが間違っていない」と考えている人がいるからだ。なにかの基準で趣味の良し悪しを選別してしまうと、かならず他のものさしで物事を考える人の自由を侵害する。ところがどんなにいい加減な基準でも、いちど生まれると「この基準で選別すれば問題は解決する」と安直に縋る。加害性の有無というあやふやな錦の御旗はやがて雪だるま式に大きくなり、あっというまに「反社会的な趣味かそうでないか」に成長する。その基準の合理性は置き去りにしたままSNSは加熱し、感情が先行して検証が埃を被ったまま規制が筍のように生えていく。袋に入れたあぶれ者を棒で叩き殺してからすっかり忘れ、その規制をあとから正す労力は誰も計算のうちに入れない。

 我々は自分らの権利を削るとどうなるかを考えながら、足元に線を引いていく必要がある。自分が立っているスペースを誰かがズタズタに引き裂かれてから騒いでも後の祭りだ。

 だからこそ、ゾーニングする必要がある。こちら側のもっている「理解されない趣味」にさらされる人との諍いは防がなければならない。いくら自分が正しくても、個々人の侵すべきでないスペースというものがある。ぶつかれば弾圧される。逆に自分が到底受け入れられない趣味もある。
 見つからない。ぶつからない。いることを悟られない。お互いの正しさを、足元を削り合わずに解決するにはそれで折り合いをつけるべき時がある。真正面からぶつかって話し合うことは大変フェアだが、ぶつかり合うことだけが交渉ではないことも頭に入れておくべきだ。

 確かに、弱者が搾取されていることについて心を痛めるのは大切だが、する必要のない衝突で自分の身を削って弱者になりに行くことはない。いることがお互いわからなければ、警告のワンクッションがあれば、どちらもいらない苦しみを負わずに済むことが多い。特定の、安全な場所や寄り合いを作って共有することで、相手も自分も損をしない。


 ゾーニングする。隠しておく。傷つく人からはわからないようにしておく。そういう"社会的責任"の取り方もある、というのが自分の結論である。

 あなたの趣味がどんな形でも構いません。
 闇は誰にもぶつからない闇の中へ、入れておきませんか。