狭い囲いのなかで生きた子どもたち ゲーム「返校」クリア後感想
そうだ、積みゲー崩そう。ということで去年のオータムセールから積み続けていた返校をついにプレイしました。以下、とりとめもない駄文ですが、考えたことや思ったことを書き留めていきます。
※注意1 当記事にはゲーム「返校」のネタバレが含まれています。ホラー表現が苦手な方、未プレイの方はここでブラウザバックするなどの自衛をお願いいたします。
※注意2 当記事には政治的題材を扱ったゲームである以上、筆者の政治的思想もからめて筆をとる部分があり、過激な言葉を使うこともあります。表現に対してセンシティブな方や他人の意見が気に食わなくてしょうがなくて見るのもイヤだという方はブラウザバックするなどの自衛をお願いいたします。
もくじ
どんなゲームか
台湾というと、どのような印象を抱くでしょうか。ほとんどの人は、世界史で習った記憶をなんとなく覚えており、独特な料理の文化、屋台の食事といったようなことは想起されるかと思います。あるいは、「ああ、中国とだいぶ険悪な国だっけ…」……人によって違うかもしれません。
「返校」は、そんな台湾において深く傷を残した暗闇の部分に触れつつも、ひとりの少女の物語とからめて悲劇をつづったホラーゲームであります。
深い山の中にひっそりと建つ翠華高校。
そこで学生が二人、閉じ込められていることに気がつく。
かつての学び舎は悪夢のような場所へと変貌し、冥府の存在が跋扈していた。
脱出のために、今は謎めく存在となった学校を探索し、謎を解かなければならない。
この息をつかせぬ恐怖が襲う環境でどう生き延びるのか。無事に戻れるのだろうか?
―返校 Steamストアページより
幸運というべきか、筆者である僕はすこし台湾の歴史について資料を読む機会があったので、台湾に血塗られた歴史があることを頭では理解していました。実際、この資料自体も経済の観点から台湾の歴史にふれたわかりやすい記事ですので、リンクを貼っておきます。
頭では理解していた……。まさに、返校をプレイしてそう思いました。僕は資料を読んだだけで、頭ではわかっているつもりだった。数十行の文を読んで、「へえ、2.28事件か。そんな酷いことがあったんだな」ということはわかっても、そこで生きた人がどんな地獄を見たかはわかっていなかった。
返校はフィクションであり、ゲーム冒頭の注意書きのとおり現実には起こっていない出来事ですので、あまり肩入れしすぎてはいけない創作物ではあります。
しかし、自分の見知った人が逆さ吊りにされ、あるいは拳銃で頭を吹き飛ばされるという凄惨な光景は、文字からはどうしても読み取ることができない。それが言論統制で資料を残そうにも残せないのであれば、なおさら我々外の国の人間からはわからないことです。そこに光を当ててゲームとして昇華し、決して他人事ではない過ちや彼らの悲しみの一端をビジュアルとして見せてくれた。すでに世間的に評価されているので私が言ったところで今更ですが、やはりあらためて、返校はそういった「史料」としても凄まじい作品だと思います。
触れてみてわかる返校の凄さ
張り巡らされた示唆と比喩で描く時代背景
返校に触れ、最初から一貫して思ったのは、このゲームは示唆や比喩表現が実に秀逸だということです。おそらくですが、すべてのオブジェクトにストーリー上の意味だけでなくもうひとつかふたつ重ねてあるのではないかと思います。
たとえば、この「歯」。
このみっつの歯は、主人公のレイシンちゃんが校内を巡って集めてきたサイコロを椀に振ったとき変化したものです。おそらくプレイしてすぐにピンときた方は多かったかと思います。僕もウワッ…と思いました。
レイシンちゃんがサイコロを見つける場所は、だいたい血まみれだったり腐った何かのなかです。さらに校内には国民党政権による「賭博禁止」の張り紙がある。そしてこのサイコロを振る椀自体も、血まみれのバケツのすぐそばで…。
それが、歯になる…。直接は言っていませんが、これらから想像できるのは「誰かが禁止されていたサイコロでの賭博(チンチロリン)をしていた結果、歯を抜かれる処罰や拷問の憂き目にあった」というストーリーではないでしょうか。
返校は全編に渡り、こういった秀逸な示唆を仕込んでいます。この歯を額面どおりに受け取れば、べつになんのことはないただのホラー表現とも言えますし、誰かが直接歯を抜かれているなんてシーンはありません。驚くべきことにこのゲームで直接生きている人間が拷問されたり殺されるシーンというのはほんの少ししかないのですよ。でも、人形や歯といった事物にほかの情報を継ぎ足すことで、「何が起こっていたか」をプレイヤー自身に想像させる。これが本当にうまい。 過激な残虐表現による規制を避ける、という意味でもこれらの示唆は上手だと思います。
入木三分 森を描きながらも、枝の一本をおろそかにしない
表現技法もこのように卓越しているのですが、返校はストーリーのつくりそのものも秀逸だと言わざるを得ません。
ここまででも触れてきたとおり、返校は白色テロや国民党の言論統制をバックに物語を展開していきますが、しかしファン・レイシンという個人をしっかり軸にしており、激動の時代をマクロに描きつつもひとりの人間というミクロな視点を忘れずに絡めている。
たとえばあまりにも政治やデモという話を押し出しすぎると、人間一人一人という等身大で我々の理解しやすい次元から遠ざかり、大局的な話になっていきます。あんまり主語のでかい話をされても実感が湧かんというわけですね。そこで上手いのが、先述したとおりあくまで国民党の弾圧は示唆やバックにとどめ、「レイシン」というひとりの女の子に主役を絞る。だからこそ感情移入でき、話もわかりやすくなる。章で言うと第二章までは「学校」という外の舞台で時代背景についてそれとなく解説しつつ、その前提をいちど作ってからつづく三章からは「レイシン」に迫っていくわけですね。
なにか事件が起こったとしたら、その事件そのものはひとつのくくりにして資料にできても、実際はその影響を受けた周囲の人々がくくりから漏れることがあります。国民党の厳しい搾取、言論統制があって、その先に民草にはなにがあったのか。優しかったレイシンちゃんのお父さんの仕事がうまく行かなくなったりヤケになったのは、少なからず社会の激変があったからでしょう。だから家庭がうまく行かなくなり、レイシンちゃんは……。
社会で何かが起きた結果、その玉突き事故で起きていく「個人」の不幸まで追うことで、「個人」である我々は初めてそこに自分を置き換えて考えることができるのだと思います。「2.28事件」「白色テロ」という文字列をググってwikipediaを読むのと、「ファン・レイシン」の家庭を見て彼女の思いと事情を察するのではやはり得られる情報の種類が違います。返校はゲーム前半と後半を使ってマクロとミクロ、「社会」と「個人」のどちらかだけではいけない不可分な資料の両方をちゃんと揃えて描いたので、プレイする人にその時代の苦しみを理解させやすい非常に秀逸な構造だったと思います。
感想
ここまではやや客観的に返校の特徴について触れてきましたが、以下は個人的な感想になります。人によって鼻につくところもあるかと思いますがご理解ください。
このゲームを遊び終わって、僕はあるゲームを思い出していました。
手前味噌になってしまいますが、過去記事にまとめたとおり「ネグレクトを受けている子どもが、最後の心の支えを失ったとき」をテーマにしたゲームです。こちらはフリーゲームで誰でも無料で遊べますので、おすすめしておきます。
返校の三章を読み進めて思ったのは、このゲームと同じ「子供から見える世界の狭さ」でした。
苦しいことがあったとして、子どもはいったいどこまで逃げ出せるでしょうか。大人は多少の稼ぎがあります。おおっぴらに酒も飲めるし、勇気があれば上司からの鬼電を無視してピザ食いながらabemaとかネトフリ見ててもいいし、免許を取ればレンタカーに乗ってどこへでもいけますし、電車に乗って一泊どこかに温泉宿をとってもいいでしょう。ある程度は逃げ道があります。しかし子どもの世界は狭い。せいぜい自転車こいでいける範囲が、子どもから見える世界の果てです。
ましてや、その狭い世界がさらに狭くなるとしたらどうでしょう。ひとりで本を読んでやりすごすという、ただそれだけのことが満足にできなかった時代がある。僕自身も高校時代ずっとつらい出来事があって図書室にこもっていました。たくさん本の中の言葉に勇気づけられ、多少は頭も鍛えられたと思います。それがレイシンちゃんやウェイくんが生きた時代ではできなかった。家では怒号が響き渡り、学校では家庭のことを詮索される。ジロジロと互いを見張って密告しあい、ものいわぬ神仏の像にしかつらい胸の内を明かすことができない。本は検閲されて冒険小説ひとつまともに読めない。その息苦しさは察するに有り余るといった思いです。
レイシンちゃんはあまりにも選択肢のない、つらすぎる世界でチャン先生という唯一の光を見つけたのですから、夢見心地になるのも無理からぬことでしょう。
それが奪われたとき、どれほどまでに心が壊されるか。劇中でレイシンちゃんは自分の行いを悔い続けますが、決してレイシンちゃんだけが罪に手を染めたわけではないと思います。カウンセラーでありながら相談者と適切な距離を取らず、課外に合う約束まで取り付けたチャン先生の無責任。家庭内暴力に不倫までする父親。そういった積み重ねがレイシンちゃんの背中を突き飛ばし、周囲を巻き込んで爆発してしまった…。
被害者でありながらもウェイくんはその心情をよく汲み取っていたと思います。彼の手記が、幾ばくかでもレイシンちゃんの救いになったならと思うばかりです。
そしてもうひとつ感じたのが、弱者が他者から奪わねば生きられぬ悲惨さです。
レイシンちゃんは確かに暴力的で誤った行いに走ってしまったかもしれない。しかし自分がそうすることがどれほど間違っていたか、内心では理解していたはずです。だからこそ本作でレイシンちゃんは翠華高校に縛られ、終わらない罪の意識に囚われていた。
他者に傷つけられたときの痛みがわかる人が、他者を傷つけなければ己の居場所をみつけられない。こんなにむごいことはないですよ。理不尽な強者に勝てない弱者のレイシンちゃんが何かを奪い取ることができるのは、同じかそれよりひどい境遇の弱者からしかなかった。
レイシンちゃんがその決断に至ったのは、もちろん本人の憎しみや小狡い打算もあったとは思います。ですがもうすこしレイシンちゃんに居場所があったなら、もっと言葉とこころが自由にできたなら、誰にとってももう少し救いのある決着があったのではないかと思えてなりません。
このゲームを通して、そして台湾の歴史の一端に触れて僕が思うのは、「言葉とヒトのあり方を広く保つ社会であってほしいな」ということでした。広く余裕のある世界なら、レイシンちゃんのお父さんはああまで追い詰められなかったかもしれない。お父さんにもう少し余裕があれば、レイシンちゃんとお母さんが生きる世界ももう少しだけゆとりあるものだったかもしれない。そしてレイシンちゃんに余裕があれば、チャン先生だけでなくもう少し多くの助けにすがろうと思えたかもしれない。暴力的な手段は取られず、イン先生や生徒は連行されず、本は検閲をのがれ、暗い時代をもう少しだけ光あるものにできたかもしれない。
自分のあとの世代に考える自由をのこす、思ったことを書いていい余白をつくってあげる。子どもたちに居場所があり、社会的に弱い立場の人でも生きるための選択肢を広く持てて、そして後悔の念にかられながら他者を傷つけるなんてことがなくてもいいような世の中にしていきたい。
このゲームに限らず作品にはいろんな解釈があると思います。この作品で心を傷つけられた人もいるかもしれません。考えていることが食い違って評価を低くつける人もいるかもしれない。ですがぼくはそう、力強いメッセージがあると読み解きました。
言葉とこころが多様に在れる、そういう世界にしていきたいです。
(追記)
トゥルーエンドを見ました。ゲームの大意は変わらなかったので、この記事全体はそのままにしておくことにしました。
大意は変わらなかったけど、でも、レイシンちゃんにとって欠けていた言葉が埋まったんですね。レイシンちゃんとチャン先生のあいだのそれは間違っていたけれど、確かに愛されていたんだなあと。
レイシンちゃんの望む幸せには至らなかったけれど、ウェイくんという人がたとえチクリ魔の濡れ衣を被せられても最後まで守り通し、晴れた日に会いに来てくれた。伝わらなかったけれども、彼女のことを守り通して、覚えていてくれる人はいたんだよなという、寂しくも爽やかなエンディングでした。
いいゲームでした。
<了>