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主にゲームと映画についての雑記。

雑記:チェンソーマン10巻を読んだ

 旧年中は諸々お世話になりました。

 そういえば例の記事が先週のはてなのランキングで9位を獲ったようです。ありがとうございます。
 ただこの件についてはCP2077というコンテンツが軸となってPVを動かしていただけだと思うので自分の努力とかコンテンツ力だとは一切思ってないです。あくまで僕が川に笹舟を浮かべてみたら他の人が集まって笹舟を流したというようなもので僕はすごくないのです。笹舟の作り方を考えた人と川の流れがすごいのです。

 たくさんのPVを動かしたという栄誉は僕ではなくCP2077に与えられるべきだと思うので、去年暮れに書いた三本の記事についてはこれで区切りにします。

 あと本来の目的なんですがチェンソーマン10巻を読みましたのでなんとなく思ってたこととかSNSに散らかしたことをまとめておきます。ちなみに読者さんが増えてありがたいのですが、このブログは本来こういう胡乱なことを言ってる個人ブログなので「あっ切ろうかな」と思ったら切ったほうが良いと思います。

(ネタバレがあるので読まないなど各自自衛してください)




(Amazonのリンクですが僕の口座には一銭も入らないのでご安心ください)

 わからん、なにもわからん

 僕はチェンソーマン10巻を読んでいるつもりで200巻くらいを読んでいたのかもしれないです
 今までのすべて場当たり的に奇をてらった筋書きかと思われていたものが全て丁寧に繋がれてきました。繋がれてきたことを論理的には理解しているのですが情動的には理解できないといったところです。
 ファイアパンチ入れ子構造的に計算して作られた世界の話だとすれば、こちらはムカデ人間のように全体像をつないだ状態をイメージしてから先頭の一人に食わせたものが食道を通っていく様子をカメラで一体ずつ順に追っていくような構造なのだと思います。
 藤本タツキという人は神話的モチーフが好きでよく使う作家さんなのですが(ファイアパンチなんかは特に神にされてしまったボーボー男の話です)、まさかここまで直截にやるとは思わなかったですね


 藤本タツキとかいう変態作家の素晴らしいところはキャラクターの死の演出にあると思います。
 これはTwitterとかのSNSでも推しを殺す作家のひとりとしてジョークで言われてますが、鬼滅の刃吾峠呼世晴先生がひとりひとり丁寧に物語を作って殺すやり方をやってるように、チェンソーマンではそれとブラックジョークとしての大量殺戮を交互に使うというこれもまた非常に高度な手腕を用いています。
 つまり「丁寧に殺す」と「雑に殺す」を意図的に使い分けているのです。だから僕たち読者の感情がめちゃくちゃにされ、横槍メンゴ先生が月曜日が来るたびにチェンソーマン芸人になってしまうのではないか、と僕は考えています。


 少し前の漫画に、田島昭宇大塚英志の「多重人格探偵サイコ」っていう(あとあと展開が迷走する)猟奇的なサスペンス漫画があるんですが、その一巻の後書きで「なぜこの漫画でグロテスクな死体を描写したか」っていう解説があるんですね
 そこで言われているのが個々の死にフォーカスすることで死の記号化に抗うということなんです

 SFで言うコロニーを破壊して何億人死んだという短文とグロテスクな死体は同じ死なんだけど、記号化されてない感情に訴えかける死が後者にあるという文章です。
 (もっとも、このマンガが発表された時代が1997年というマンガやアニメに対して非情に厳しい目が向けられていた時代ですから、このあとがきはそういった世間の目に対する火の粉避けとか大義名分のためという意味を多分に含んでいますが)

 たとえばSF作品で「植民コロニーを破壊して何億人死んだ」という地の文があったとして、それに感情移入して本気で泣けるかというのは若干怪しいところです。それはあくまで舞台演出に過ぎず、悪役が過去たくさん殺したという設定などに使われるに過ぎません。僕の好きなアーマード・コアというゲームシリーズの一作でも主人公が何千万人も殺すくだりがあるのですが、やはりそれは主人公が決定的に後戻りできないテロリストに堕してしまうという演出のためで、涙するシーンではまったくありません。ただ、こういうやり方が悪いのではなく、あくまで舞台演出として悪いイメージ付けをするときには死を記号化すると便利だということですね。

 しかし、一人ひとりが殺される前からあとまでしっかり描くことで、キャラクターに対して感情移入が可能になり、読者の心臓をぐっと捉えて離さないのです。これについては煉獄さんがいま劇場版で証明しているところでしょう(僕も無限列車編で命をかけまっすぐに人として生き死ぬことを説いた煉獄さんの在り方は好きです)。鬼滅の刃とはまた表現する意図が違いますが、このあとがきを書いた多重人格探偵サイコでも、自由な表現が難しい時代にありながら人の死に感情移入させた上手い作品だったと思います。


 チェンソーマンは、最初にひとつの死にフォーカスしてから、直後に大量に殺して記号化させることでその両者の境を曲芸飛行しています。つまり先程触れたように「丁寧な殺し」と「(記号的で)雑な殺し」を使い分けているのです。だから読者は藤本タツキとかいうマンガの悪魔に感情を玩ばれることになります

 アキくんやレゼちゃんのように、個人がその人生を語られ血を流して死ぬのは、感情移入して悲しくなるように人間の仕組みが出来ているのです。しかしここが意地の悪いところなんですが、そういった辛くて重い死のあとにたくさん死ぬスラップスティックで面白いブラックジョークを挟んでくるのが藤本タツキという作家なんです
 たとえばこういう面白い死は、直近で言えばコベニちゃんのとこでファミリーファミリー言うてたパワハラ店員が片っ端から殺され、さっきまでコケまくってたコベニちゃんがDDRでコンボを繋いでたりする愉快すぎるシーンもそうですし、人形の悪魔のくだりでクァンシがたくさん殺したところなどは「尸体在说话」も面白いところのひとつですし、ナンセンスコメディの「えの素」をリスペクトしているとも言われているとおりまさしく記号的な死を取り扱っていて、バッサバッサと人形をなぎ倒していくさまは爽快です
 こういう死はとても面白いです。考えてみればファミリーバーガーのおっさんにも多分家族とか人生はあるんでしょうが、本編ではテンポよく首を飛ばす係なのでとても笑えます。

 デンジくんの辛い過去の直後にコベニちゃんのバイトが出てきたのもそうですし、実は物語開始時点からデンジくんの極貧生活からの悲劇的な死という悲しいストーリー→「テメエら全員殺せばよお!借金はパアだぜ」という大量殺戮のあたりからそういう構造といえばそういう構造なのです。チェンソー争奪戦の件で死んでいった公安メンバーと兄を重ね「おれ達は死なない!」と言い放った殺し屋三兄弟の末弟が、まあ宣言通り死ななかったけどハロウィンハロウィン言いながらフラフラしているオチなどは、その丁寧さと雑さを交互に使った藤本タツキのやり方がよく出ていると思います。
 人の死を悲しむべきものと面白いもの両方にするよう交互に仕向けてきているから藤本タツキは最悪なんですね(褒め言葉)


 とどのつまり、なぜ読者がながやま こはる a.k.a. 藤本タツキという変態にもてあそばれているかというと、キャラクターが死んで面白かったり爽快だったりする場面と、死んだキャラクターに感情移入する場面を無茶苦茶に出されてきて、死というものに向き合う態度が行方不明になっていき顔の半分が笑ってて半分が泣いたまま倫理観をミキサーに掛けられた状態でストーリー上の謎をふっかけられてくるからなんですね

 そういう意味では、読者の感情をコントロールして、印象深く忘れがたいマンガを意図的に作る手続きをやっている実験作なのかもしれません
 悪魔と魔神の中間的な存在の名前がずっと出てこなかった設定も拾ってきましたし、伏線の張り方と回収を考えながら並行して読者の情動面まで操作してくるというのは、本当に異常な漫画家としか言いようがないですね


 11巻で第一部が終わるらしいので、推しの子とか僕ヤバとかリリィ・トライアングルを読みながら次巻をじっくり待ちます。
 (これらのマンガも面白いのでオススメです)



【了】